第6話 裏切りの名を持つ花
ドロテ・ヘスラーとの再会は、予想していたよりも早く訪れた。
監査局の保護施設に移って三日目のことだ。施設の前に、見覚えのある背の高い影が立っていた。銀縁の眼鏡。きちんと結い上げた髪。二十年間、毎日見てきた姿だ。
「イルゼ様」
相変わらず無表情だった。だが、目の奥に焦りがある。睫毛が小刻みに震えている。二十年間見てきた顔だ。わずかな変化も見逃さない。
「お会いしたかったのです」
「私も、話したいことがあったわ」
カスパルには事前に相談していた。彼は施設の応接室での面会を許可し、隣室で書記官が記録を取る手はずを整えてくれた。
応接室で向かい合った。ドロテは背筋を伸ばし、膝の上で手を組んでいた。あの几帳面な佇まいは昔と変わらない。でも、指先がわずかに白い。力を入れすぎている。
「イルゼ様。公爵様が亡くなられました」
「知っています」
「屋敷は大変なことになっております。壁は崩れ、庭は荒れ果て、銀食器はすべて腐食し、使用人たちも次々と辞めています。もはや人が住める状態ではありません」
私の維持術式が途切れた結果だ。二十年分の劣化が一気に押し寄せている。
「イルゼ様にお戻りいただきたいのです」
「それは、誰の意向ですか。あなた個人の? それとも、リゼッタの?」
ドロテの手が、ほんの少し強く組まれた。関節が白くなる。
「リゼッタ様は現在、公爵家の財産相続を主張されています。ですが、屋敷がこの状態では、資産価値が──」
「ドロテ」
私は彼女の名を呼んだ。昔のように「さん」をつけなかった。意図的にだ。
「五年前、公爵家からあなたに金貨三百枚が支払われた記録があります。何の対価ですか」
ドロテの無表情が、初めて崩れた。目が泳ぎ、唇がわずかに開く。
「……監査局が、そこまで」
「はい。二十年分の財務記録をすべて確認しました。あなた宛の不自然な支出は、これだけではありません。定期的に、通常の給金とは別の金額が支払われている」
沈黙が落ちた。応接室の古い柱時計が、静かに時を刻んでいる。
「私の行動を、ゲオルクに報告していたのね」
ドロテは答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。目を伏せ、組んだ手が小刻みに震えている。
「いつから」
「……最初からです」
最初から。つまり、私が公爵家に嫁いだ日から、二十年間ずっと。
「公爵様のご命令でした。奥方の行動を逐一報告せよ、と。特に、魔法の使用について」
「ゲオルクは、私の維持術式のことを知っていたの?」
「はい。ただし、公爵様はそれをご自分の功績として王宮に報告されていました。『当家の秘術により屋敷を維持している』と。あたかも公爵家が代々伝える魔法であるかのように」
眩暈がした。椅子の背もたれに手をかけて、身体を支えた。
知っていたのだ。私の魔法のことを。その価値を十分に理解していた。そのうえで利用し、手柄を奪い、「代わりはいくらでもいる」と言い続けていた。
あの言葉の残酷さが、今になって初めて本当の意味で胸を刺した。代わりがいないことを知っていて、そう言った。私が信じて、自分の価値を疑うように仕向けるために。二十年間、丁寧に、確実に。
「あなたへの金貨三百枚は」
「口止め料です。イルゼ様が術式の価値に気づかないよう、また、外部に真実が漏れないよう、私が管理するための」
(二十年間)
(二十年間、私のすぐ隣で、すべてを見ていて、何も教えてくれなかった)
怒りが込み上げた。腹の底から、熱いものがせり上がってくる。だが、叫ばなかった。叫ぶ代わりに、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。唇を噛む。奥歯を噛み締める。
花言葉という文化がある。西洋では古くから、花に象徴的な意味を持たせてきた。薔薇は愛。百合は純潔。忘れな草は真実の愛。この慣習は、十八世紀のオスマン帝国からヨーロッパに伝わったとされる。トルコの宮廷で、言葉にできない想いを花に託す風習があった。花は沈黙のまま語る。人の口よりも、ときに正直に。
そして、ドロテという名前。ギリシャ語のテオドーラの変形で、「神の贈り物」を意味する。
皮肉なものだ。「神の贈り物」と名づけられた女が、二十年間私を裏切り続けていた。贈り物という名の、美しい鎖だった。
「ドロテ。もう一つ聞きます。公爵の遺言書を偽造したのは誰ですか」
「……それは」
「あなたなら知っているはず。公爵の署名を偽造できる人間は限られている。公爵の筆跡を毎日目にしていた人間──たとえば、侍女頭のあなた」
ドロテの顔から、完全に血の気が引いた。
「違います。遺言書を偽造したのは私ではありません」
「では誰が」
「……リゼッタ様です。リゼッタ様が、公爵様の過去の署名を模写して遺言書を作成されました。練習用の紙も何枚もありました。私は──私はただ、それを見て見ぬふりをしただけです」
共犯だ。偽造の実行犯ではなくとも、知っていて黙認した時点で、法的には共犯と見なされる。
「それだけではないでしょう」
「……」
「公爵の毒殺。あなたは何か知っていますね」
ドロテの手が震えた。抑えきれない震え。二十年間見たことがない表情だった。
「リゼッタ様は……公爵様に、飽きていました。もう用はない。財産だけが目的だったのです。イルゼ様が屋敷を出たことで、計画が早まりました。イルゼ様に罪を着せられると踏んで」
「つまり、毒殺の犯人はリゼッタ」
「はい。トリカブトの入手も、ワインへの混入も、すべてリゼッタ様が実行しました。私は──」
その瞬間、応接室の扉が開いた。カスパルが入ってきた。表情は変わらないが、目が鋭い。
「十分です。ドロテ・ヘスラー、あなたの証言を記録しました。これより正式な事情聴取を行います」
カスパルの声は事務的だったが、その目にはドロテへの静かな怒りが見えた。二十年間人を欺き続けた女への。しかしそれ以上に、欺かれた側のイルゼへの感情が、その表情のどこかにあった。
ドロテは抵抗しなかった。静かに立ち上がり、カスパルに従った。背筋だけは最後まで伸ばしていた。あの几帳面さは、どんな状況でも変わらないらしい。
部屋を出るとき、ドロテが振り返った。
「イルゼ様。一つだけ、本当のことを申し上げます」
「何」
「あの屋敷で、あなたがいなくなって本当に困ったのは、私だけでした」
それが本心なのか、最後の演技なのか。二十年間そばにいても、この人の本心だけは、ついにわからなかった。
ドロテが去ったあと、私は椅子に座ったまましばらく動けなかった。指先が冷たい。
窓の外から、鳥の声が聞こえた。こんなにも穏やかな午後に、こんなにも重い真実を聞いた。二十年間のすべてが、違う色に塗り替えられていく。信じていたものが崩れるのは、屋敷の壁が崩れるより、ずっと痛い。
カスパルが、コップに入った水を差し出した。
「飲んでください」
水を受け取ったとき、彼の指先が、ほんの一瞬だけ私の手に触れた。
温かかった。
それだけのことだったのに、涙がこみ上げそうになった。懸命にこらえた。




