第5話 維持術式の代価
監査局での仕事は、初日から容赦がなかった。
カスパルは朝から晩まで書類と向き合い、私にも同じ強度を求めた。公爵家の二十年分の財務記録を一枚ずつ洗い直す作業だ。当然、一日や二日では終わらない。
だが、不思議と苦ではなかった。
公爵家で同じように書類仕事をしていた二十年間と、一つだけ違うことがあった。カスパルは、私の仕事ぶりを黙って見て、それから言った。
「正確ですね。二十年分の記録を照合する速度が、通常の三倍はあります」
それだけだ。褒めたのではない。ただ事実を述べただけだ。けれど、私の仕事を認知してもらったのは、二十年ぶりだった。
「ここに、月ごとの屋敷維持費の記録があります」
カスパルが広げた書類の束を見て、私は手を止めた。見覚えのある書式だ。私自身が何百回と目を通した、あの台帳と同じ形式。
「……これは、おかしい」
「何がです」
「維持費の金額です。ここに『外壁修繕費・月額金貨五十枚』とあります。でも、外壁の修繕は私の術式で行っていました。この二十年間、外壁の修繕に職人を雇った記録は一度もないはずです」
カスパルのペンが止まった。
「つまり、あなたの魔法で賄われていた作業に対して、予算が別途計上され、その予算が──」
「どこかに流れている。架空の支出です」
これは横領だ。私の無償労働があるからこそ実際には発生しない費用を、あたかも発生したように計上して、その差額を抜き取っていた者がいる。
「ほかにもあります。庭園管理費、銀食器磨き費、窓枠修繕費……これらも私の術式でカバーしていた範囲です。すべてに予算が組まれ、支出されている」
カスパルは表情を変えず、しかし明らかにペンの動きが速くなった。
二人で半日かけて二十年分の記録を洗い出した結果は、驚くべきものだった。
「総額、金貨一万二千枚」
カスパルの声には、珍しく感情が混じっていた。わずかな怒り。
「二十年間で、金貨一万二千枚が架空の屋敷維持費として流出しています。これは公爵家の総資産のおよそ三割に相当する額です」
私が無給で働いている裏で、これほどの金が動いていた。知らなかった。二十年間、何も知らずに壁を直し、庭を整え、銀器を磨いていた。
「この支出の決裁者はすべて公爵ゲオルクの署名です。ただし──」
「ただし?」
「先ほどの遺言書と同じ問題があります。署名の筆跡に揺れがある。本人が書いたものかどうか、確実ではありません」
誰かがゲオルクの名前で決裁し、資金を抜き取っていた可能性がある。ゲオルク本人が関与していたのか、それとも名前を使われていただけなのか。
死人に口はない。
◇
昼食を取りに監査局の食堂に行くと、カスパルも黙ってついてきた。
「カスパルさん」
「主任で構いません」
「では、主任。なぜ私を信じたのですか。容疑者なのに」
彼はパンを千切りながら、しばらく黙っていた。食堂の喧騒の中で、その沈黙は不思議と心地よかった。周りでは局員たちが談笑し、食器の音が響いている。その中で、カスパルだけが静かだった。
「信じてはいません」
「では──」
「維持術式の残留魔力を分析しました。屋敷の壁や調度品に残されたあなたの魔力痕を、時系列で追った。結果、二十年間一日も途切れずに施術されていたことが判明しています」
維持術式の魔力は、施術を止めた瞬間から徐々に減衰する。その減衰パターンを分析すれば、最後にいつ施術されたかが正確にわかる。魔力の「指紋」のようなものだ。
「それが何か」
「二十年間、一日も休まず術式を維持する。休日も、病気の日も、夫に冷遇された日も。それがどれほどの精神的負荷を伴うか、想像はできます」
「……」
「それだけの献身をしていた人間が、毒を盛る動機があるだろうか。論理的に考えれば、矛盾する。屋敷を出る決断をした時点で、あなたの中では決着がついていたはずです。毒を盛る必要がない」
「論理、ですか」
「感情で判断するのは私の仕事ではありません」
だが、その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。氷の下を流れる水のような温かさ。
午後、書類の分析を再開した。横領の資金がどこに流れたかを追う。
「受取人の名前が伏せられている案件が複数あります。匿名口座への送金です」
「匿名口座の開設には、必ず銀行の仲介人が必要です。仲介人の記録を洗えば──」
「すでに手配しています」
カスパルの仕事は速い。そして正確だった。彼は感情を排して事実だけを積み上げる。その手法が、私が屋敷で行ってきた管理業務と、どこか似ていた。地味で、正確で、誰にも気づかれない仕事。
「ここに、おかしな記録が一つ」
私は書類の束の中から一枚を抜き出した。
「五年前の支出記録です。『特別調達費・金貨三百枚・受取人ドロテ・ヘスラー』」
ドロテ。
「ドロテ・ヘスラー。公爵家の侍女頭ですね」
「はい。二十年間、私に最も近くいた使用人です」
信頼していた、と過去形で言った自分の声が、妙に冷たく響いた。
侍女の年俸は、通常金貨二十枚から三十枚。侍女頭であっても五十枚を超えることはまずない。金貨三百枚は、明らかに異常な金額だ。
「この金額は、何の対価だと思いますか」
バーバラの言葉が蘇った。ドロテが薬草店を回って、私を探していたこと。
「ドロテは、屋敷の中で私の行動をすべて把握していました。いつ起き、いつ眠り、どの部屋にいるか。信頼していたから、すべて自分から知らせていた」
「……監視と報告の対価ですか」
「可能性として」
カスパルはその書類に付箋を貼った。何も言わなかったが、ペンを握る指先に力が入っていた。
夕方、監査局を出るとき、カスパルが門まで送ってくれた。
「明日も来てもらえますか」
「もちろんです」
「一つ忠告します。ドロテがあなたを探しているなら、居場所を知られないようにしてください。監査局の保護施設を用意できます」
「……考えておきます」
バーバラの店に帰ると、老婆はいつもどおり薬草を束ねていた。
「おかえり。夕飯はまだだよ」
「バーバラさん、ドロテが──」
「うん、今日もうろついてたよ。でも心配しなさんな。四十年商売してる婆さんに、見張りの一人や二人でどうにかなるもんかね」
バーバラが温かいスープを出してくれた。レンズ豆の。
「でもね、イルゼ。あんたに一つ聞いておきたいことがある」
「何ですか」
「あんた、あの公爵家に戻る気はあるのかい」
「……ありません」
「じゃあ、自分の足で立つんだね。誰かの屋根の下にいる限り、あんたは誰かに守られてるだけだ。守ってもらうのは悪いことじゃないが、いつまでもそうしてちゃいけない」
その言葉が、胸の奥に残った。
自分の足で立つ。二十年間、忘れていたことだ。
翌日、私はカスパルに申し出た。
「監査局の保護施設をお借りします。それと──調査への協力を正式な契約にしてください。対価も含めて」
カスパルが、少しだけ目を見開いた。
「……いいでしょう。契約書を用意します」
初めて、私は自分の仕事に対価を求めた。
それは小さな一歩だった。でも、二十年間で最も大きな一歩でもあった。バーバラが言ってくれた言葉が、胸の奥で静かに響いている。自分の足で立つ。そのための、確かな最初の一歩。




