第4話 監査官の冷たい目
カスパル・ゼルマンは、想像していたよりも背が高かった。
濃い藍色の外套が風に揺れている。銀の胸章──鷲と天秤──が、午後の陽を受けて鋭く光った。二十代後半か三十になったばかりか。若い。監査局の主任としては異例の若さだろう。
「来ると思っていました」
感情のない声だった。深い緑色の瞳には、何の温かみもない。人を見るというより、書類を読むような目だ。
「あの手紙を書いたのは、あなたですか」
「ここでは話せません。中へ」
彼について監査局の建物に入った。石造りの廊下は薄暗く、靴音が反響する。すれ違う役人たちが、ちらりとこちらを見た。
長い廊下を歩き、小さな取調室に通された。
木の椅子が二つ。机が一つ。窓には鉄格子。壁には何の飾りもなく、ただ白い漆喰が塗られているだけ。ここは客間ではなく、容疑者のための部屋だった。
「座ってください」
「その前に一つ聞かせてください。私は容疑者として連行されたのですか」
「まだ、です」
「まだ」の部分を、彼はわずかに強調した。
「イルゼ・ヴァルシュタイン。公爵ゲオルク・ヴァルシュタイン毒殺の件について、いくつか質問があります」
「私は毒など盛っていません」
「それは調査が判断することです。ご自身の主張は記録しますが、それだけでは証拠になりません」
冷たい。だが、不当ではなかった。監査官として当然の態度だ。感情を挟まず、事実だけを追う。
カスパルは机に書類を広げた。整然と並べられた紙の束。彼の字は端正で、余白の使い方に無駄がなかった。
「あなたが屋敷を出たのは、公爵が亡くなる四日前です。出立の理由をお聞かせください」
「夫との婚姻生活が破綻していたためです。婚姻契約書の離縁条項に基づき、屋敷を出ました」
「契約書はお持ちですか」
「写しがあります」
行李から婚姻契約書の写しを取り出した。カスパルはそれを受け取り、黙読した。ページをめくる指が、一定の速度で動いていく。この人は読むのが速い。
「……確かに、離縁条項がある。『妻の生活が著しく損なわれた場合』。この条項を設けた理由は」
「父が入れました。万が一のためだと」
「あなたの父は先見の明があったようだ」
それが感想なのか皮肉なのか、表情からは読み取れなかった。
「次に、維持術式について伺います」
カスパルが新しい書類を広げた。
「公爵邸の維持管理をあなたが魔法で行っていたという証言が、使用人数名から得られています」
「使用人たちが」
「壁に手を触れる習慣があったこと。あなたが屋敷を出た直後に建物の劣化が始まったこと。状況証拠ですが、蓋然性は十分です」
知っていたのか。使用人たちの中に、私の習慣を不思議に思っていた者がいたのだ。
「はい。維持術式を施していたのは事実です」
「無給で、ですね」
「……はい」
カスパルのペンが一瞬止まった。ほんのわずかな間だった。瞬きほどの短い停止。だが、私はそれを見逃さなかった。
「二十年間の無給労働。維持術式の市場価値を換算すると、年間およそ金貨八百枚分に相当します。これは王宮の維持管理部門が同等の作業を外注した場合の見積もりです。二十年で金貨一万六千枚」
具体的な金額を口にされると、めまいがした。一万六千枚。それだけの価値のある仕事を、私は「妻の務め」として無償で行っていた。
「その対価を、あなたは一度も請求しなかった」
「妻の務めだと思っていましたので」
「務め、ですか」
カスパルはペンを置いた。初めて、少しだけ表情が動いた。怒りでも同情でもなく、もっと静かな何か。失望に近い、しかし自分に向けられたような表情。
◇
「本題に入ります。公爵の遺言についてです」
彼は引き出しから、一通の封書を取り出した。古い羊皮紙に、赤い蝋封。
「公爵ゲオルク・ヴァルシュタインの遺言書。死の三日前に、王宮の公証人に預けられていたものです」
「三日前……つまり、私が屋敷を出る前日ですか」
「そうです」
「内容を読み上げます。『我が妻イルゼ・ヴァルシュタインに対し、一切の財産相続権を認めない。すべての資産は愛妾リゼッタ・ホルンに譲るものとする』」
予想はしていた。だが、公文書として聞くと、胸の奥が鈍く痛んだ。二十年を費やした場所から、最後の痕跡まで消し去るつもりだったのだ。
「ただし」
カスパルの声が、わずかに鋭くなった。
「この遺言書には、重大な問題があります」
「問題?」
「公証人への預け入れ記録と、遺言書に使われた羊皮紙の製造年が一致しません」
羊皮紙の年代分析。これは古文書の真贋鑑定において基本中の基本とされる技術だ。動物の皮をなめす際に使用される薬品──石灰やミョウバンなど──の組成比率は時代ごとに異なる。専門の鑑定士であれば、手触りと薬品の残留臭で年代をおおよそ特定できる。
「この遺言書に使われた羊皮紙は、なめしに使われた石灰の配合比から判断して、少なくとも五年以上前のものです。しかし、公証人は『三日前に持ち込まれた新しい文書だ』と証言している」
「つまり……」
「五年前に書かれた文書を、死の直前に公証人に預けた。あるいは──」
「偽造」
「その可能性を調査しています」
偽造。では、この遺言書を作ったのは誰だ。
「もう一つ」
カスパルが私の目を見た。冷たい緑の瞳が、少しだけ鋭くなった。
「遺言書の筆跡を鑑定しました。結果、公爵本人の筆跡ではない可能性が高い。ペンの筆圧、文字の傾き、字画の癖。いずれも公爵の他の文書と有意な差異が認められます」
「では、誰が書いたのか──」
「それを突き止めるのが私の仕事です。そして、あなたが容疑者のままでいる限り、調査には限界がある」
カスパルは椅子から立ち上がった。
「提案があります、イルゼ・ヴァルシュタイン。あなたの容疑を晴らすために、監査局に協力してもらえませんか。公爵家の内情に最も精通しているのは、二十年間そこで働いていたあなたのはずです」
「協力? 容疑者である私に、そんなことを?」
「容疑者だからこそです。真犯人を見つけることが、あなたの嫌疑を晴らす最も確実な方法だ」
彼の言葉に、打算はなかった。少なくとも、声にはそう聞こえた。
だが、まだ信じるには早い。
「考えさせてください」
「明日の正午まで。それ以降は、正式な手続きに移行する可能性があります」
冷たい。だが、期限を設けるということは、それまでは自由でいさせるという意味でもある。そこに、かすかな誠実さを感じた。
監査局を出たとき、陽が傾きかけていた。
バーバラの店に戻ると、老婆は黙って温かい茶を出してくれた。
「大変だったかい」
「……ええ、少し」
懐のラベンダーが、かすかに香っていた。指先でそっと触れる。この小さな束が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
翌日の正午より前に、私はカスパルの元を訪ねた。
「協力します。ただし、条件があります」
「聞きましょう」
「調査で判明した不正は、すべて公にしてください。たとえ王宮の人間が関わっていても、もみ消しはなしで」
カスパルの目が、ほんの一瞬だけ和らいだ。氷の表面に、春の陽が差したような。
「それは、こちらも望むところです」




