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「代わりはいくらでもいる」20年間、無給の秘書として働かされた公爵夫人が消えた朝、屋敷はただのボロ屋になり果てた  作者: 渚月(なづき)


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第3話 毒と遺言

ゲオルクが死んだ。


その知らせを聞いたとき、私の手は震えなかった。悲しみも怒りも、不思議なほど湧いてこなかった。ただ、二十年という時間の重さが、頭の中をゆっくりと通り過ぎていっただけだ。


あの人はもういない。あの「代わりはいくらでもいる」と繰り返した声が、永遠に消えた。


「毒殺だってさ」


バーバラが仕入れ先から聞いてきた話を、薬草の束を選り分けながら教えてくれた。


「夕食のワインに毒が盛られていたらしい。飲んで一刻もしないうちに苦しみだして、そのまま。犯人はまだわかっていないそうだよ」


「……そうですか」


不思議なほど、平坦な声が出た。二十年の歳月は、あの人への感情を、こんなにも薄くしてしまったのか。


「あんた、元公爵夫人だろう」


手が止まった。バーバラを見ると、老婆は薬草の葉を選り分けながら、こちらを見ていなかった。


「四十年も薬草屋をやってると、人の手を見りゃだいたいわかるのさ。あんたの手は、書き仕事を何十年もやった手だ。ペンだこがある。でも肌が荒れてない。魔力で手入れされてる。そんな贅沢ができるのは、名家の出だけだよ」


薬草屋の観察眼は、医者に匹敵するという。バーバラの目は正確だった。


「……はい。元、ですが」


「聞かないでおくって言っただろう。あたしはあんたの過去に興味はないよ。でもね、一つだけ忠告しておく」


バーバラが初めてこちらを見た。深い皺の奥の目が、鋭く光っていた。


「毒殺の容疑者として、真っ先に公爵夫人の名前が挙がってるよ。屋敷を出た直後に夫が死んだ。動機も機会もある。あんたを追ってるのは、そういうことだろうさ」


血の気が引いた。足元が冷たくなる。





その日の夜、私はバーバラの店の裏口から通りの様子を窺った。


見張りの姿はない。だが、油断はできなかった。


私は毒など盛っていない。あの日の夕食にも出ていないし、ワインに触れてすらいない。だが、状況証拠はすべて私を指している。屋敷を出たタイミング。夫への不満。二十年間の冷遇。動機は十分だ。


この国の司法制度は、物的証拠がなくても状況証拠の積み重ねで有罪にできる仕組みだった。とりわけ貴族の事件では、「疑わしきは罰せよ」という不文律が根強い。身分の低い者が貴族の死に関われば、弁明の機会すら与えられないことがある。


(逃げるか、それとも──)


逃げればますます怪しまれる。かといって、自ら出頭しても信じてもらえる保証はない。


「あんた、毒のことは何か知っているのかい」


バーバラが奥から声をかけてきた。


「知りません。本当に。私はあの日、夕食前に屋敷を出ました」


「そうかい。じゃあ一つ教えてやろう。あの公爵のワインに使われた毒はね、トリカブトの一種だよ。それも、ただのトリカブトじゃない」


バーバラが薬草の棚から古い文献を引き出した。


「高地にしか自生しない特殊な変種で、学名はアコニトゥム・ナペルスの北方亜種。通常のトリカブトより三倍毒性が強い。王都で手に入れるには、免許を持った専門の薬草商を通すしかない」


「バーバラさんの店にも?」


「ないよ。あんな危険なもの、うちは扱わない。だが、この街で免許を持って扱っている店は三軒だけだ。そしてそのうち一軒は──ヴァルシュタイン公爵家の御用商人だよ」


御用商人。つまり、公爵家の内部に毒を手に入れられる者がいるということだ。屋敷の中に、殺意を持った人間がいた。私がいた二十年間、ずっと同じ空間にいたのかもしれない。背筋が冷たくなった。


西洋の薬学において、トリカブトは古くから「諸刃の剣」として知られてきた。微量であれば神経痛の鎮痛に用いられるが、わずかに量を誤れば致死量に達する。中世の毒殺事件の多くにトリカブトが関わっているのは、薬として身近に存在し、致死量と薬効量の差が極めて小さいためだった。


「バーバラさん。なぜそこまで詳しいのですか」


「薬草屋は毒にも詳しくなきゃ商売にならないのさ。どの草が人を癒し、どの草が人を殺すか。その境界は、実はとても曖昧なものだよ。量が薬と毒を分ける。それが薬学の第一の教えだ」


バーバラはそう言いながら、乾燥中のセージの葉を裏返した。


「それともう一つ、気になることがある」


バーバラが声をひそめた。


「昨日、うちの店にね、公爵家の侍女が来たんだよ。背の高い、眼鏡をかけた無表情な女」


ドロテだ。


「何を買いに?」


「何も買わなかったよ。ただ、店の中をゆっくり見回して、奥の部屋を覗こうとして、あんたがいないか確かめるように見て、それから何も言わず出ていった」


ドロテが私を探している。侍女が独断で元女主人を追うだろうか。誰かの指示があるはずだ。


(ドロテ。あなたは、何を知っているの)


二十年間、最も近くにいた使用人。私の日課を知り、私の予定を管理し、私の食事を運んでくれた人。信頼していた。少なくとも、そう思っていた。


翌日の早朝、店の玄関先に一通の封書が置かれていた。蝋封がされている。差出人の記載はない。白い封筒に、深紅の蝋がひとつだけ押されている。


封蝋を指で触れて、息を呑んだ。


「バーバラさん、この紋様は……」


「ああ、それは王宮監査局の印だね。鷲と天秤の意匠だ」


バーバラが老眼鏡を持ち上げて封蝋を覗き込んだ。


「蝋封の鑑定は紋章学の基本中の基本さ。紋様の彫りの深さ、蝋の硬さ、色の配合。この三つで本物か偽物か見分けがつく。これは──うん、本物だよ。刻印の輪郭が鋭い。型押しの圧力が均一。偽造品はここがぼやけるんだ」


封を切った。


中には一行だけ、端正な筆跡で書かれていた。


「公爵の遺言が存在する。あなたに関わる内容だ。──C」


Cとは誰だ。監査局の人間だろうか。あの冷たい目をした青年──カスパル。


遺言。ゲオルクが遺言を残していたとは知らなかった。二十年間、夫の書斎の書類を管理してきたが、遺言書など見たことがない。私に関わる内容とは、何だ。


(罠かもしれない。おびき出すための)


だが、無視するわけにもいかなかった。遺言の内容次第では、私の立場が大きく変わる。財産の相続権はもちろん、毒殺の容疑にも影響しうる。


ゲオルクは死んだ。屋敷は崩壊している。そして今、私は毒殺の容疑者として追われている。


もう逃げているだけでは何も解決しない。


「バーバラさん」


「なんだい」


「少しだけ、出かけてきます」


バーバラは何も言わず、干した薬草の小さな束を一つ、私の手に押し込んだ。


「ラベンダーだよ。気持ちが落ち着く。懐に入れておきな」


ラベンダー。その名はラテン語の「洗う」に由来する。古代ローマでは、入浴時に水に入れて心身を清めるために用いられた。鎮静作用があり、不安を和らげる効果がある。


私はそのラベンダーを懐に入れ、店を出た。


夕暮れの街を歩く。人々が家路を急ぐ中、私だけが帰る場所を持たない。あの屋敷はもう、私の居場所ではない。二十年いた場所が、一夜で他人の家になった。


王宮監査局の建物は、王城の東翼にある。そこに向かうことは、自ら虎穴に入ることと同義だった。


それでも、足は前に進んだ。


監査局の門の前で、あの青年が待っていた。


まるで、私が来ることを知っていたかのように。


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