第2話 屋敷が崩れた日
ヴァルシュタイン公爵邸が崩壊を始めたのは、私が門を出てから半日も経たない頃だったらしい。
もっとも、私はそれを直接知らない。知ったのは三日後、王都の外れにある安宿の食堂で、偶然耳にした噂話からだった。
「ねえ、聞いた? ヴァルシュタイン公爵のお屋敷、一晩でボロボロになったんですって」
隣の卓で、市場帰りらしい女たちが声をひそめている。
「壁が崩れて、庭のバラは全部枯れて、銀食器は真っ黒になったって。まるで百年放置した廃墟みたいだって」
「嘘でしょう。あのお屋敷、つい先日も『王都で一番美しい』って評判だったのに」
「それがさ、公爵様は大慌てで魔法使いを三人も呼んだらしいんだけど、誰にも直せないんですってよ」
私はパンを千切りながら、静かに耳を傾けていた。
直せないだろう。維持術式は「かけた者」の魔力と波長が合って初めて機能する。二十年かけて屋敷全体に染みこませた私の魔力を、他人が上書きすることは事実上不可能だ。
この性質は、維持術式の基礎理論として広く知られている。物質に魔力を定着させる場合、最初に施術した者の魔力特性が「型」となり、以降はその型に適合する魔力しか受け付けなくなるのだ。古い城や神殿の修繕が困難なのは、まさにこの原理のためだった。初代の施術者が亡くなった後、誰にも維持できなくなった建造物は少なくない。
(それでも、ゲオルクは「代わり」を探しているのでしょうね)
見つかるはずがない。でも、それはもう私の問題ではなかった。
宿の部屋に戻り、残りの所持金を数えた。銅貨が二十三枚と、銀貨が五枚。あと十日もすれば底をつく。
何か仕事を見つけなければならない。
◇
四日目の昼、私は王都の職業紹介所を訪ねた。
石造りの古い建物の中は薄暗く、カウンターの向こうに白髪の老人が座っていた。羽根ペンを動かす手を止め、眼鏡越しにこちらを見る。
「どういった仕事をお探しで」
「屋敷管理、会計処理、書類作成、商人との交渉。いずれも実務経験が二十年あります。あと、維持術式の施術が可能です」
老人の目が丸くなった。
「維持術式? 本当かね。それは珍しい。王宮の管理部門で常に募集が出ているが……失礼だが、お嬢さん、身元の保証人はおるかね」
「……いません」
「それは困ったな。王宮は身元不明者を雇わんのだよ。どこの貴族の推薦もないとなると」
わかっていた。公爵夫人という肩書きを捨てた以上、私はただの身元不明の女だ。どれほど技能があっても、保証人がいなければ門前払いされる。
この国の雇用制度は、身元保証を前提としている。貴族であれば家名が保証となるが、庶民は地元の長老や商会の推薦状が必要だ。制度としては不正を防ぐためのものだが、同時に、身元を失った者には残酷な壁でもあった。
肩を落として紹介所を出た。
宿に戻る道すがら、路地裏で足を止めた。薬草の匂いがした。乾いた葉と、ほんのり甘い花の残り香。懐かしい匂いだ。実家の庭を思い出す。
路地の奥に、小さな薬草店があった。看板の文字はかすれているが、「バーバラの薬草店」と読める。木製の看板は年季が入り、角が丸くなっている。だが不思議と温かみがあった。扉は開け放たれ、中から老婆の声が聞こえた。
「困ったね、この薬草、もう乾燥が進みすぎて使いものにならないよ。今月の仕入れ分がまるごと無駄になっちまった」
覗くと、老婆が茶色く萎びた薬草の束を前に嘆いていた。カモミールだ。本来なら淡い黄色をしているはずだが、水分が抜けて完全に変色している。
「あの……よろしければ、その薬草を見せていただけませんか」
老婆が怪訝そうにこちらを見た。小柄で丸い体型。深い皺と、しかし鋭い目。
「あんた誰だい」
「通りすがりの者です。少しだけ、植物の扱いに心得がありまして」
カモミールを手に取った。乾燥はしているが、細胞の構造自体はまだ完全には壊れていない。維持術式の応用で、組織の劣化を逆行させることは理論上可能だ。
指先にほんの少し魔力を込めた。薬草の細胞一つ一つに働きかけ、失われた水分の代わりに、魔力で組織を安定させる。壁を直すのと原理は同じだ。
カモミールが、ゆっくりと青みを取り戻した。萎びていた花弁が、微かに膨らむ。完全に元通りとはいかないが、薬効を保つには十分な状態にまで回復していた。
老婆の目が見開かれた。
「こりゃ驚いた……あんた、何者だい。こんな芸当、見たことないよ」
「ただの、元秘書です」
この老婆──バーバラは、王都の南区で四十年薬草店を営む女主人だった。その日のうちに、私は店の裏の小部屋に住み込みで働くことになった。
薬草の鮮度維持。これなら私の術式が生かせる。報酬は僅かだが、宿代と食事が浮くだけでも十分だった。
「ところであんた、名前は?」
「イルゼ、と申します」
「イルゼかい。いい名前だね。で、イルゼ。あんた何か訳ありだろう。顔を見ればわかるさ。でも聞かないでおくよ。うちは、働いてくれる人なら誰でも歓迎だからね」
バーバラはそう言って、温かいスープを出してくれた。
レンズ豆のスープ。ローリエの葉が浮いていて、ほんのり胡椒が効いている。
久しぶりに、味のするスープだった。思わず目を閉じた。舌が味を思い出していく。
「おいしい……」
「そうかい。じゃあ明日もまた作ってやるよ」
バーバラの声は、ぶっきらぼうだが温かかった。
その夜、店の裏で荷物を整理していると、表通りから騒がしい声が聞こえた。
「王宮監査局の者だ。ヴァルシュタイン公爵家に関する調査を行っている。公爵夫人イルゼ・ヴァルシュタインについて、何か情報があれば申し出よ」
心臓が跳ねた。
監査局。王宮直轄の調査機関だ。税金の不正使用や貴族の汚職を摘発する役目を持つ。公爵家が私を「逃げた妻」として探しているなら、管轄は民事になるはず。監査局が動いているとなると、話が違う。
これは夫婦の問題ではない。何か別の理由で、監査局は私を探している。
窓の隙間から外を窺った。
二人の男が通りを歩いている。一人は中年の役人風。もう一人は──若い男だった。濃い藍色の外套に、銀の胸章。整った横顔に、感情を消した冷たい目。月明かりの下で、その目が異様に澄んで見えた。
「カスパル主任監査官。この辺りの聞き込みは以上です」
「続けろ。彼女は必ずこの街にいる」
低く、よく通る声だった。断定的でありながら、怒気はない。
カスパル──と呼ばれた青年が、ふとこちらの方向を見た。
私は咄嗟に窓から身を引いた。息を殺す。壁に背中を押し付け、心臓の音を聞いた。
(見つかった……?)
五秒。十秒。
足音が遠ざかっていった。
胸を押さえ、ゆっくりと息を吐く。手のひらが汗で濡れていた。
監査局は、何を調べているのだろう。そして、なぜ私を探している。
「イルゼ、どうしたんだい。顔が真っ青だよ」
バーバラが心配そうに覗き込んだ。
「いえ……何でもありません」
何でもなくはなかった。でも、今はまだ話せない。
翌日、ヴァルシュタイン公爵ゲオルクが死んだという報せが、王都中を駆け巡った。




