第1話 代わりはいくらでもいる
私の一日は、誰よりも早く始まる。
東の空がまだ薄暗いうちに寝台を抜け出し、冷たい石の廊下を裸足で歩く。使用人たちが起き出す前に、屋敷の隅々を確認して回るのが、もう二十年来の習慣になっていた。
足の裏が冷たい。スリッパは三年前に擦り切れたきり、新しいものを買ってもらえていない。窓の外では、庭師が植えたはずの薔薇がまた枯れかけている。水をやる者がいないのだ。庭師は半年前に辞めた。後任は雇われていない。
壁に手を触れる。指先から、ほんのわずかな魔力が流れ出ていくのを感じた。ひび割れかけていた漆喰が、音もなく元に戻る。指先が微かに痺れる。昨日より、魔力の消耗が大きい気がした。
ヴァルシュタイン公爵家の屋敷は、王都でも指折りの美しさで知られている。白亜の壁、手入れの行き届いた庭園、磨き抜かれた銀食器。訪れた客は誰もが感嘆の声を上げる。
「まるで建てたばかりのようですね」と。
その美しさの理由を、誰も知らない。
「イルゼ様、本日の来客予定でございます」
侍女頭のドロテが、いつもの無表情で書類を差し出した。彼女はこの屋敷で最も古い使用人の一人で、私が嫁いできた頃からここにいる。背が高く、銀縁の眼鏡をかけた痩身の女性。感情を見せたことが一度もない。
「ありがとう、ドロテ」
受け取った書類に目を通す。午前に領地管理の報告。午後に王宮への提出書類の確認。夕方には取引商人との会合。
すべて私の仕事だ。
公爵夫人の仕事ではない。秘書の仕事だ。
いや、秘書ですらない。秘書なら給金が出る。私に支払われるものは何もなかった。屋敷の片隅に与えられた六畳ほどの部屋と、使用人と同じ食事。それが、ヴァルシュタイン公爵夫人イルゼに与えられたすべてだった。
領地の会計処理。使用人四十名の勤怠管理。王宮への報告書の作成。外交文書の翻訳。客人の応対準備。庭園の管理指示。銀食器の在庫管理。
これらを毎日、二十年間、一人でこなしてきた。
(慣れてしまった。それが一番怖いことだ)
◇
「今月の領地収支をまとめておけ」
夫──ゲオルク・ヴァルシュタインは、朝食の席でそれだけ言った。こちらを見もしない。五十を過ぎて腹の出た体を椅子に沈め、彼の視線は隣に座る女性に向けられていた。
リゼッタ。夫の愛人だ。金色の巻き毛に青い目。二十代半ば。私より二十歳は若い。
「ねえ、ゲオルク様。今度の夜会には新しいドレスがほしいわ。あの銀糸の刺繍が入ったやつ」
甘えた声が食堂に響く。私は黙ってスープを口に運んだ。
スープの味はもう、何年も前からわからなくなっている。舌が味を拒否しているのか、心が拒否しているのか。どちらでも同じことだった。
「ああ、好きなものを選べ」
ゲオルクが鷹揚にうなずく。その費用を算出し、支払い手続きをするのは私だ。リゼッタのドレス代は月に金貨十五枚。私の服は三年買っていない。
食事を終えて席を立つとき、ゲオルクが言った。
「そういえばイルゼ、お前の部屋を客室に改装する。西棟の小部屋に移れ」
「……西棟ですか」
西棟は使用人の居住区だ。天井が低く、窓が小さく、冬は底冷えがする。公爵夫人が住む場所ではない。
「構わんだろう。お前は書類仕事さえできればいい。部屋の広さは関係あるまい」
反論する気力は、とうに尽きていた。二十年前は違った。新婚の頃は、言い返す力があった。でも、毎日毎日「お前の意見は聞いていない」と言われ続けるうちに、声の出し方を忘れてしまった。
私はただ、小さくうなずいた。
(二十年。二十年間、私はこの人に何を期待していたのだろう)
廊下を歩きながら、壁にそっと手を触れた。指先から魔力が染み出す。壁の細かな罅が、音もなく修復されていく。
この屋敷を支えているのは私だ。
維持術式──物質の劣化を遅延させ、修復する魔法。派手さはないが、途方もない持続力と精密さを要求される技術だ。攻撃魔法のような華やかさはない。治癒魔法のような即効性もない。ただ、気の遠くなるような時間をかけて、物を「保つ」だけの地味な魔法。
私の実家では、代々この術式を研究していた。
嫁いだ日から、私はこの術式を屋敷全体に施してきた。壁も、庭も、調度品も、銀食器も。すべてが私の魔力で保たれている。
でもそれを知る者はいない。知らせる理由もなかった。妻として当然のことだと思っていたから。
夕方、領地の報告書を仕上げ、王宮への提出書類を清書し、商人との交渉をまとめた。夕食は西棟の小さな部屋で、一人で食べた。干したパンと、薄いスープ。使用人たちと同じ献立だ。窓の外から、本館の食堂の笑い声が聞こえてくる。リゼッタの甲高い声と、ゲオルクの低い笑い声。
寝る前に、ゲオルクの書斎に報告書を届けに行った。
「置いておけ」
ゲオルクは書類を一瞥もしなかった。その隣で、リゼッタが果物を頬張りながら笑っている。
私は書類を机に置き、踵を返した。
「ああ、イルゼ」
ゲオルクが思い出したように言った。
「お前の代わりなど、街で三人は見つかる。勘違いするなよ」
足が止まった。
この言葉を、何度聞いただろう。百回か。二百回か。数えるのをやめたのはいつだったか。
でも今日は、何かが違った。
足の裏が、床から離れない。呼吸が浅くなる。指先が冷たい。胸の奥で、何かが音を立てて折れた。
「……おやすみなさいませ」
部屋に戻り、扉を閉めた。
壁に背をつけてずるずると座り込む。手が震えていた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でもわからなかった。
(街で三人)
(私の代わりが、街で三人)
静かに笑った。
この屋敷の維持術式を引き継げる魔法使いが、この国に何人いるか。おそらく、片手で足りる。そのうち公爵家のために無償で働く者など、一人もいないだろう。
私は立ち上がり、小さな行李を引っ張り出した。
荷物は少ない。着替えが二着。母の形見の髪飾り。いくばくかの私費。二十年の婚姻生活で得たものが、これだけだった。
中世の婚姻法において、妻が正当な理由なく家を出ることは困難だ。だが、ヴァルシュタイン公爵家との婚姻契約書には、ある条項がある。「妻の生活が著しく損なわれた場合、妻は離縁を申し立てることができる」──この条項を入れたのは、私の父だった。
無給での労働強制。居室の剥奪。これらは「生活が著しく損なわれた」に該当する。
私は婚姻契約書の写しを行李の底に入れた。
二十年前、父に手を引かれてこの屋敷に入った日のことを思い出す。あのとき父は、門の前で長い間私の手を握っていた。離したくなかったのだと、今ならわかる。
壁に手を触れた。最後に一度だけ、魔力を流す。
(さようなら。二十年間、ありがとう)
壁に語りかけるのは馬鹿げている。でも、この屋敷の壁は、二十年間ずっと私の魔力を受け入れてくれた。夫よりも、ずっと。
翌日の夜明け前、私はヴァルシュタイン公爵邸を出た。
門をくぐるとき、冷たい風が頬を撫でた。冬の終わりの、まだ春には遠い風だった。空には星が残っていた。こんなにたくさんの星を見たのは、いつぶりだろう。屋敷の窓からは、いつも天井しか見えなかった。
振り返らなかった。
その日の午後、屋敷の白亜の壁に、最初の罅がゆっくりと入った。




