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EP 8

『狂った算盤と、猫耳支店長の疑念』

 腰に一本の無骨なポン刀を差し、肩に鍬を担いだ姿は、いよいよもって怪しさの極みに達していた。だが、一鬼当人は至って真面目そのものだ。今日も今日とて、朝一番から開墾現場の土を黙々と掘り起こし、美しい水平の側溝を延長していた。

 カラン、コロン。

 午後の一服の時間、現場のあぜ道に、場違いな下駄の音が響いてきた。

 木陰で麦茶を飲んでいたトッドや労働者たちが、その姿を見るなり「げっ……」と顔を引きつらせ、慌てて視線を逸らす。

 現れたのは、黒茶の艶やかな毛並みを持つ猫耳族の青年だった。

 ドワーフが仕立てた上質なミスリル混紡の高級和装スーツに身を包み、首からは純金の太いチェーン。真鍮の羅宇煙管(キセル)をぷかぷかと吹かし、片手にはミスリル鋼の枠に純金メッキの計算珠がはめ込まれた、異様な風格の『特注魔導金算盤』を抱えている。

 大陸最大のメガコングロマリット・ゴルド商会が誇る最年少幹部にして、ゴルドスマイル銀行ポポロ村支店長兼CFO――ニャングル(二十五歳)である。

「……ハァ、脳がバグるわ」

 ニャングルは紫煙を吐き出しながら、掘り進められた水路の縁を一瞥し、それから一鬼の姿を上から下まで値踏みするように睨みつけた。

「おい、アンタ。ちょっとツラ貸しぃや」

 コテコテの関西弁。一鬼は持っていた竹筒を置き、ニッカポッカの膝を払って立ち上がった。相手の身なりと漂う匂いで、ただ者ではないことなど一目で分かる。一鬼はいつものように、背筋を伸ばして直角九十度の会釈を返した。

「へぇ。わたくしに何かご用で?」

「……うわ、なんやその無駄に完成された礼儀作法は。余計に怪しいやないかい」

 ニャングルは煙管の吸い口を噛み、金算盤をシャッと構えた。指先が目にも留まらぬ速さで珠を弾く。パチパチパチッ!と、高周波の金属音が乾いた空気に鳴り響いた。

「単刀直入に聞くで。アンタ、どこの回し者や? ルナミス帝国の秘密警察か? それともアバロン魔皇国の特務工作員か? はたまたレオンハートの武闘派部族が送り込んできた刺客かいな」

「回し者、ですか。滅相もねぇ。俺はただの、流れの日雇い土工でして」

「白々しい嘘吐いとったら、この算盤の角で眉間カチ割るぞワレ!」

 ニャングルの三角の猫耳が苛立たしげにピクピクと跳ねる。

「ウチの銀行の情報網をナメたらあかんで。素手とスコップの柄だけで山賊の先遣隊を秒殺、おまけにあの偏屈ネギ(ネギオ)を口先で丸め込んで、ドンガン製の一品モノの刀を銀貨二枚で巻き上げたそうやないか。そんな規格外の戦闘力持った手練れがやな、日当・銀貨三枚ポッキリの土方仕事で泥まみれになって穴掘っとる? ……収支計算(コストベネフィット)が完全に狂っとるやろが! 算盤の桁が合わんねん!」

 パチパチパチッ!と激しく珠を弾き直しながら、ニャングルは一鬼の胸元へ詰め寄った。

「命張って山賊シメて、得られるリターンが銀貨三枚? 割に合わん! 絶対に裏がある! ポポロ村の地下の隠田を狙っとるんか? それともウチの金庫を狙うとるんか!? 損益分岐点(ブレークイーブン)を無視した行動取る奴が、この世で一番信用ならんのや!」

 機関銃のように叩きつけられる近代経済学と商人根性の詰問。

 だが、一鬼は怒るでもなく、困るでもなく、ただ懐かしそうに目を細めていた。

(……昔、組の帳簿を預かってたインテリの若頭補佐も、こんな風にギャンギャン喚いてたな)

 一鬼は静かに息を吐き、腰に差した無骨なポン刀の柄頭にそっと手を添えた。

「旦那。算盤ってなぁ、便利なもんなんでしょうが……人の心までは弾けねぇんじゃねぇですかね」

「あぁん? 綺麗事ぬかすなや。金で動かん人間なんぞ、この世に一匹もおらんわ!」

「金は大事です。飯を食うにも、道具を買うにも、銭がなきゃどうにもならねぇ。……ですがね、俺は三十五年間、日の当たらねぇ冷たい鉄格子の中で暮らしてきた男です」

 一鬼の静かな告白に、ニャングルの指先がピタリと止まった。

「朝起きて、お日道様を拝み、土を耕して、真っ当に汗を流す。夕方になりゃ、自分の手で稼いだわずかな小銭で、揚げたてのコロッケと握り飯を買って食う。……夜になりゃ、誰に追われることもなく、畳の上で足を伸ばして眠る」

 一鬼は、自らの泥で汚れた手のひらを見つめた。

「それ以上の贅沢が、この世のどこにあるってんですかい? 俺にとっちゃあ、この銀貨三枚は、かつて転がり込んできた何億っていう血塗られた大金よりも、遥かに尊く、重たいんでさぁ。……筋の通らねぇ金なんぞ、一文たりとも要りやせんよ」

「…………」

 沈黙が落ちた。

 初夏の風が吹き抜け、青々とした稲穂の葉擦れの音だけが響く。

 ニャングルは、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしていた。

 嘘を言っているようには見えない。心拍数も、体温も、瞳の揺らぎも、何一つやましい色がない。

 ――本気だ。この男、本当に「真面目に働いて、日銭で飯が食えればそれでいい」と心底思い込んでいる。

(は……? はぁぁぁぁぁぁッ!? なんやコイツ!? ホンマもんのアホなんか!?)

 ニャングルの脳内コンピューターが、激しいエラー音を立てて火花を散らした。

 『人を動かす』『予想どおりに不合理』『反脆弱性』――彼が血肉としてきたあらゆる人間行動学と市場経済の理論が、一鬼という特異点の前で完全に崩壊していく。

(見返りを求めん自己犠牲……? 打算なき無償の労働……? あかん、あかんあかん!! 収支が! 収支バランスが完全に赤字垂れ流しの狂気行動やろが!! こんなん……こんなん見せられたら……ッ!)

 ニャングルの胸の奥で、カチリ、と致命的なスイッチが入ってしまった。

 幼少期、レオンハート王国のスラムで飢えていた時、打算など微塵もなく人参パンを差し出してくれた幼馴染――キャルルのあの笑顔と、目の前の不器用な男の横顔が、最悪の形でオーバーラップしてしまったのだ。

「……ッ、チクショウが!!」

 ニャングルは激しく舌打ちし、咥えていた煙管を地面に叩きつけそうになり、寸前で思いとどまって懐へねじ込んだ。

 そして、胸ポケットから万年筆と一枚の分厚い羊皮紙をひったくるように取り出す。

「なんやその目は! 同情しとるんかワレ! あーもうクソッ、頭痛いわ! 算盤の珠が全部狂うてもうたわ!」

 ニャングルは怒鳴り散らしながら、羊皮紙の上に電光石火の勢いでペンを走らせた。

「おいイチキ! アンタな、この村に住民登録しとらんやろ! 身元保証人もおらん不法滞在者や! そんな奴が日雇いで現場入っとるだけでも労働基準法違反でガオガオンの法務AIにマークされる案件なんやぞ!」

「はぁ……そうなんですか」

「『そうなんですか』やあるかい! ……ほら、ここに拇印押しぃや!」

 突きつけられたのは、ゴルドスマイル銀行の公式印が押された『ポポロ村定住身元保証書』だった。

 最下部の身元保証人欄には、すでに流麗な筆跡で『ゴルドスマイル銀行 ポポロ村支店長 ニャングル』と署名が為されていた。

「これに指紋つけたら、アンタは晴れてポポロ村の公認村民や。ウチの銀行が身元を丸ごと保証したる。その代わり! 日当の銀貨三枚は全額ウチの銀行口座に振り込ませるからな! 口座維持手数料として毎月銅貨五枚天引きや! あと、村で何か問題起こしたらウチの損失になるから、絶対に余計な揉め事起こすなよ!」

 捲し立てるニャングルの顔は、悔しさと恥ずかしさで真っ赤になっていた。

 徹底的な拝金主義を装いながら、赤字覚悟で身元不明の男の全責任を背負い込む――ニャングルの「打算なき善意に耐性ゼロ」という重度の人情バグが、遺憾なく発揮された瞬間だった。

 一鬼は、差し出された書類をまじまじと見つめた。

 言葉の端々に散りばめられた悪態の奥に、不器用極まりない温かい情が透けて見えていた。

「……旦那。俺のような前科者に、そこまでしていただいて、よろしいんで?」

「前科者やろうが何やろうが知るかい! ワシはな、狂った算盤の帳尻を合わせたいだけや! アンタみたいな大赤字の生き方しとるアホを野放しにしといたら、ポポロ村の経済指標がバグるんじゃ! さっさと親指出しぃ!」

 一鬼は静かに口元を緩めると、朱肉代わりに自分の親指の腹を少しだけ噛み、滲んだ血を書類の捺印欄へ力強く押し当てた。

「……高島一鬼。この御恩は、生涯忘れやせん」

「恩なんぞ要らんわ、利息で返せ利息で! ……あーもう、今日の昼飯は胃薬(ガスター・オメガ)や! やっとられんわ!」

 ニャングルは書類をひったくると、金算盤を脇に抱え、下駄を激しく鳴らしながら大股で去っていった。

 その背中を見送りながら、木陰のトッドが信じられないものを見る目で呟く。

「おいおい……あのドケチで有名な金の亡者ニャングル支店長が、新入りの保証人になったぞ……」

「あり得ねぇ……あいつ、絶対どっかの大国の王族の隠し子だろ……」

 ざわめく労働者たちを他所に、一鬼は再び肩に鍬を担ぎ直した。

 太陽は西へと傾き、心地よい風が吹き抜けていく。

 腰のポン刀の重みと、懐の銀貨の温もり、そして新たに得た「居場所」の確かな手応え。

「さて……日が暮れる前に、もうひと掘り済ませるかね」

 元ヤクザの真っ当な暮らしは、着実に、この奇妙で優しい農村に根を下ろし始めていた。

 ――しかし、平穏な時間はそう長くは続かない。

 ポポロ村の境界線の外側、鬱蒼とした暗黒の森の奥深くで、屈辱に塗れた山賊連合の復讐の牙が、着々と研ぎ澄まされていたのだった。

読んでいただきありがとうございます。

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