EP 6
『スジを通せ』
「あぁん? どこの組だぁ?」
刀傷の男は、一鬼の口から出た奇妙な言葉に眉をひそめ、すぐに下卑た嗤いを浮かべた。
魔導具や高価な武具を身につけている様子はない。着ているのは安物の作業着に、足元は地下足袋。どう見ても日銭を稼ぎに来た下っ端の土方にしか見えなかった。
「おいおい、頭でもイカれたかこのジジイ面のアンちゃんはよ! 俺たちは泣く子も黙る『黒蜘蛛団』の先遣隊様だ! 組だか何だか知らねぇが、テメェみてぇな泥まみれの貧乏人に名乗る名なんざ持ってねぇよ!」
男は手にした直剣の切っ先を、威嚇するように一鬼の眼前に突き出した。
刃先と一鬼の鼻先との距離、わずか十センチ。
だが、一鬼の睫毛一本すら揺れない。冷え切った漆黒の双眸が、ただ静かに、無駄な動きの多い男の正中線を見据えていた。
「おい、新人! やめとけ、殺されるぞ!」
「金なら俺が出すから、頭を下げろ!」
背後でオークの親方やトッドたちが悲鳴のような制止の声を上げる。
だが、一鬼の耳には届かない。
彼にとって、目の前の光景は過去に嫌というほど見てきた「一番虫唾が走るクズの所業」そのものだった。己の腕一本で土を耕し、日銭を稼いで家族を養う。そんな何の罪もないカタギの背中に刃を突きつけ、生きる糧を強奪する。
かつて彼が命を賭して仕えた親分は、常々こう言っていた。
――極道ってなぁ、カタギを泣かせるために看板背負ってんじゃねぇ。ヤクザ者同士のケジメをつけて、裏で泥を啜るのが俺たちの業だ、と。
「……黒蜘蛛、かい」
一鬼は静かに呟き、ダボついたニッカポッカのポケットから両手を抜いた。
肩にかけていた手拭いを手首に巻き、キュッと結ぶ。
「虫ケラみてぇな名ぁ名乗って、やってることもケツの穴の小せぇタカリか。……親の顔が見てぇもんだな」
「テメェ……ッ! ナメた口利いてんじゃねぇぞゴルァッ!!」
刀傷の男が激昂した。
踏み込みとともに、粗悪な直剣が一鬼の胸元へ向けて一直線に突き出される。
殺意の籠もった鋭利な刺突。だが――一鬼の目には、その動きがまるで止まっているかのように見えていた。
(刃筋がブレまくってやがる。肩に無駄な力が入り、腰が浮いている。……素人だ)
一鬼は、武器を抜くことすらしなかった。
鍬もスコップも地面に置いたまま。ただ、左足をわずかに五センチ、斜め前方へと滑らせた。
スッ、と。
紙一重の体捌き。突き出された直剣の刃が、一鬼の晒を巻いた脇腹の数ミリ横を虚しく空転する。
「なっ……!?」
男の目が驚愕に見開かれた瞬間には、すでに勝負は決していた。
一鬼の右手が、下段から最短距離の軌道を描いて突き上がっていた。
北辰一刀流が誇る、無刀の組手体術――『当て身・突き上げ掌底』。
――ドゴォッ!!
重く、鈍い破裂音が現場に木霊した。
一鬼の掌の根元が、男の顎先へ寸分の狂いもなく垂直にカチ込まれたのだ。
体重の全てを乗せた衝撃波が頭骨を突き抜け、脳幹を直接揺さぶる。
刀傷の男は「ガッ……!?」と短い空気を吐き出すと、そのまま白目を剥き、宙を半回転して背中から地面へ叩きつけられた。手から零れ落ちた直剣が、乾いた音を立てて転がる。
所要時間、わずかコンマ五秒。
「ヒッ……!? ア、アニキ!?」
後ろに控えていた二人の山賊が、凍りついたように立ち尽くした。
何が起きたのかすら認識できていない。ただ、一瞬前まで威張り散らしていたリーダーが、作業着の男に触れられた瞬間、一撃で昏倒したという事実だけがそこにあった。
「テ、テメェ……魔法使いか!? 魔闘術か!?」
「知らねぇな、そんな小洒落たもん」
一鬼は擦り足で、静かに一歩間合いを詰めた。
その歩行には、風を裂く音すらしない。
二人の山賊は本能的な恐怖に駆られ、慌てて手にした魔導ボウガンの引き金を引いた。
バシュッ! バシュッ!
青白い魔力光を帯びた鋼鉄の矢が、至近距離から一鬼の心臓と額を狙って放たれる。常人であれば反応すら不可能な速度。
だが、一鬼はすでに「相手の指先が引き金に触れた瞬間」の筋肉の収縮を看破していた。
サッ、と首をわずかに傾け、上体をミリ単位で捻る。
二本の矢は、一鬼の頬の産毛を掠めて後方の地面に突き刺さった。
「ば、化け物……ッ!」
残った二人が恐怖のあまりボウガンを投げ捨て、腰の短剣を抜こうとした。
しかし、一鬼の動きはそれを許さない。
足元に転がっていたスコップの柄を、地下足袋の爪先でポンと蹴り上げる。空中に跳ね上がった木製の柄を右手で掴むや否や、流れるような動作で水平に薙ぎ払った。
――バチィィィンッ!!
「ギャブッ!?」
右側の山賊の手首へ、スコップの柄が正確に直撃した。骨が軋む音とともに短剣が弾き飛ばされる。
間髪入れず、一鬼は軸足をスイッチ。低空を滑るような足払いを相手の膝裏へ引っ掛け、体勢を崩したところへ、空いた左手の手刀を首筋の頸動脈へ鋭く落とし込んだ。
二人目が、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
「ひ、ひぃぃぃっ! 来るな、来るなぁぁぁっ!!」
最後の一人が腰を抜かし、尻餅をつきながら後退りする。
一鬼は手にしたスコップを、ズブリと地面に突き立てた。
そして、逃げ惑う男の前へと無言で歩み寄る。
ズシッ……ズシッ……。
一歩ごとに、大気が重く澱んでいくようだった。
昭和の暗黒街で、数多の修羅場を単身で潜り抜け、三十五年間を鉄格子の冷気の中で過ごした男の「質量」。
闘気などという華々しいエネルギーではない。ただただ人を殺め、己の魂を削り続けてきた者だけが纏う、底なしの暗黒と業。
「ひ……あ……」
男の喉から、声にならない悲鳴が漏れる。股間から生温かい液体が染み出し、土を濡らしていた。
一鬼は男の前にしゃがみ込むと、作業着の袖で乱暴に男の胸ぐらを掴み上げた。
顔と顔の距離は、わずか十センチ。
底冷えのする一鬼の双眸が、男の瞳の奥を逃げ場のない檻のように捉えていた。
「おい、兄ちゃん」
ドスの利いた、地を這うような低音が一鬼の喉から絞り出される。
「……汗水垂らして働くカタギから金を巻き上げるのが、テメェらの『仕事』だってんなら……その落とし前は、誰がつけるんだ? あぁ?」
「ご、ごべんなざいっ……! お、お金は……お金はもう要りませんからぁっ……!」
「銭の話をしてんじゃねぇんだよ」
一鬼の手指が、ギリッと男の首元の革鎧を締め上げる。
男の顔が鬱血して赤黒く染まっていく。
「スジを通せ、っつってんだ。泥まみれになって掘った水路を踏み荒らし、真面目に生きてる連中を脅して掠め取った飯が、そんなに美味いか? ……ええ加減にせぇよ、ワレ」
思わず零れ落ちた、かつての極道時代の関西訛り。
その一言に込められた絶対的な威圧に、山賊の男は完全に精神をへし折られた。
「も、もうしません……! 二度と、二度とこの村には近づきませんからぁぁぁっ……!!」
涙と鼻水を垂れ流して懇願する男を見て、一鬼はフッと冷たい息を吐き出すと、ゴミでも捨てるように胸ぐらを放した。
「……二度と、このポポロ村の敷居を跨ぐんじゃねぇぞ。次テメェらの汚ねぇツラを見かけたら……その時は、骨の一本や二本じゃ済まさんからな」
「ヒィィィィッ!!」
男は気絶した二人の仲間の襟首を必死に掴み上げると、引きずるようにして脱兎の如く森の奥へと逃げ去っていった。転び、泥にまみれながら、一度たりとも振り返ることなく地平線の彼方へと消えていく。
しんと静まり返る開墾現場。
土煙がゆっくりと風に流されていく中、一鬼は首の手拭いを外し、乱れた息を整えた。
そして、倒れていたオークの現場監督のもとへ歩み寄ると、膝をついて手を差し伸べた。
「……親方。怪我はねぇかい」
「ひ、ひいぃっ……! あ、ありがとうごぜぇます……っ!」
オークの親方は、助けてもらった感謝と、目の前の男に対する底知れない恐怖で身体をガタガタと震わせながら、その手を取った。
周囲の労働者たちも、遠巻きに一鬼を見つめたまま、誰一人として声を上げることができない。
武器も魔法も使わず、ただ素手とスコップの柄だけで、武装した山賊三人を一瞬で片付けた作業員。
あの眼光。あの凄み。あれは、絶対にただの土方ではない。
(……やれやれ。娑婆に出て早々、また荒事をやっちまったな)
一鬼は内心で苦笑し、自らの拳を見つめた。
人を殴った手のひらは、わずかに熱を持っていた。だが、三十五年前のような後悔や冷たい虚無感は不思議となかった。
守るべきカタギのために、スジを通した。ただそれだけのことだ。
「おい! 何事だッ!!」
その時、蹄の音を激しく響かせながら、白銀の甲冑を纏った人影が開墾現場へと飛び込んできた。
自警団リーダー、ケンタウロスのマンミアだった。手には大型のパイルバンカーシールド『アグニ』を構え、肩で荒い息をしている。
「山賊の襲撃と聞いて駆けつけたが……! おい、賊はどこへ行った!? 怪我人は……ッ!?」
現場の惨状を見回すマンミアの視線が、返り血一つ浴びず、涼しい顔で作業着の土を払っている一鬼の姿でピタリと止まった。
地面には叩き折られた矢と、引きずられたような足跡。
そして、一鬼が地面に突き立てたスコップが、何事もなかったかのように夕日を浴びて鈍く光っていた。
「……イチキ殿。貴殿、一体……何をなさったのだ?」
マンミアの引きつった問いかけに、一鬼は完璧な九十度の礼儀正しいお辞儀を返した。
「何、少々行儀の悪い害虫が迷い込んできましたので。……掃き掃除を済ませたところでございます」
そのどこまでも落ち着き払った声に、マンミアの背筋に再び冷たい悪寒が走るのだった。
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