EP 5
『タローマートのコロッケと、理不尽な影』
夕暮れの茜空が、ポポロ村の広大な田園を黄金色に染め上げていた。
一鬼の手元には、現場監督のオークから「特別手当だ、受け取ってくれぇ!」と涙ながらに握らされた、銀貨四枚――規定の日当より一枚多い硬貨が収まっていた。
「……ありがてぇこった」
泥にまみれた手のひらの上で、銀貨を指先で弾く。チャリンと澄んだ音がした。
三十五年ぶり、いや、人生で初めて「真っ当な労働の対価」として手に入れた金だ。かつて極道の世界で転がり込んできた札束とは、重みも、肌触りもまるで違っていた。
腹が盛大に鳴る。朝から水一杯で荒地を耕し続けたのだ、無理もない。
一鬼は、村の中央大通りに建つ大型スーパー『タローマート』へと足を向けた。
この店もまた、初代皇帝が持ち込んだ地球のスーパーマーケットの形式を忠実に再現している。夕刻の店内は、夕餉の買い出しに訪れた村の主婦たちでごった返していた。
人参マンドラが棚の網の中で「出せコラー!」と暴れ回り、生簀ではピラダイが鋭い牙を鳴らして飛び跳ねている。そんな異世界の狂気じみた生鮮食品街を素通りし、一鬼が向かったのは総菜コーナーだった。
「おっ、ちょうど揚げたてが並んだところだな」
保温ケースの中に、キツネ色にカラリと揚がった大判のコロッケが並んでいた。値札には『太陽芋とシープピッグの特製コロッケ:銅貨一枚』の文字。
横には、米麦草を固めに握った塩むすびが二個で銅貨一枚。
一鬼はそれらをトレイに乗せ、レジで銀貨を崩して支払いを済ませた。
店を出た一鬼は、近くの小さな児童公園のベンチに腰を下ろした。
紙袋から取り出したコロッケは、まだ指先が火傷しそうなほど熱い。ハフハフと息を吹きかけ、端っこを豪快にかじりついた。
サクッ、と小気味よい衣の音が響く。
中から現れたのは、黄金色に輝く太陽芋の滑らかな舌触りと、シープピッグのジューシーな甘みだった。塩気の効いたホクホクの芋に、肉のコクが溶け合っている。
間髪入れずに、塩むすびを一口。米麦草の粒立ちの良い米粒が、口の中でパラリと解け、噛むほどに優しい甘みが広がる。
「……うめぇなぁ」
ぽつりと、掠れた声が漏れた。
刑務所の冷えた麦飯でもなく、組事務所で食った豪勢だがどこか血生臭い高級料亭の仕出しでもない。
自分の足で歩き、自分の腕で掘り、手に入れた銀貨で買った、ただのコロッケと握り飯。
その素朴で圧倒的な温もりが、六十五年ものあいだ荒みきっていた一鬼の胸の奥底を、じんわりと満たしていった。
「よう、新入り! 一人で侘しく買い食いか?」
不意に声をかけられた。
見上げると、昼間の開墾現場でツルハシを持っていた日雇い労働者の男――痩せぎすの元冒険者、トッドが、安酒の瓶を片手にベンチの端へどっかりと座り込んできたところだった。
一鬼はもぐもぐと口を動かしながら、軽く会釈を返す。
「邪魔しちまったかい」
「いや、いい食いっぷりだなと思ってよ。それにしてもアンタ、昼間は凄かったぜ。あのオークの親方が腰抜かしてただろ。……おかげで俺たちのサボり分まで穴が埋まっちまったよ」
トッドは苦笑交じりに安酒を喉へ流し込み、ふぅと長い息を吐いた。その横顔には、どこか薄暗い影が差していた。
「……まぁ、いくら綺麗に水路を引いたところで、いつまでこの村が持つかも分からねぇがな」
「あん? どういう意味だ」
一鬼が首を傾げると、トッドは声を潜め、周囲を警戒するように視線を走らせた。
「知らねぇのか? 前村長のロップのジジイがよ、村の防衛基金……通称『暴行しない券』の積立金を全額懐に入れて、魔族の未亡人と高飛びしちまったんだよ」
「ぼうこう……しないけん?」
聞き慣れない、いや、どこかヤクザのみかじめ料を思わせる禍々しい単語に、一鬼の眉根がピクリと動いた。
「ああ。この村は三大国の境界にある緩衝地帯だ。どこの国の軍隊も常駐できねぇ。そこにつけ込んだ近隣の山賊共がよ、『毎月定額を払えば、お前の家は襲わないでやる』っつって、みかじめ料……いや、サブスクってやつを売りつけてたんだよ。村長はその被害を防ぐ名目で村中から金を集めてたんだが……その金が全部消えた」
「…………」
「今じゃ自警団のマンミア様が一人で踏ん張ってるが、山賊共は『支払いが滞ってるぞ』っつって、近いうちに村へ取り立て……つまり略奪に来るって噂だ。弱ぇ農家共は、夜も眠れずに怯えてるのさ。クソッタレな世の中だろ?」
トッドは吐き捨てるように言い、瓶に残った酒を飲み干して立ち去っていった。
一人残された一鬼は、食べ終えたコロッケの包み紙を丁寧に四つ折りに畳み、ポケットへと収めた。
胸の奥に、冷たい鉄の塊が沈み込んでいくような感覚があった。
(……カタギから金を巻き上げ、払えなきゃ暴力をチラつかせる、か)
昭和の極道社会でも、そんな外道なシノギを平気で行うチンピラはいた。そして一鬼は、そうしたスジの通らない輩を何より嫌悪し、徹底的に叩き潰してきた男だった。
「……俺には関係のねぇことだ。俺はもう、ただの土方なんだからな」
そう自分に言い聞かせ、一鬼は立ち上がった。
村はずれの安宿へ向かう足取りは、先ほどまでの軽やかさを少しだけ失っていた。
*
翌日。
午前中の開墾作業は順調そのものだった。
一鬼の正確無比な鍬さばきにより、予定されていた第二水路の掘削は瞬く間に半分以上が完了していた。周囲の労働者たちも、一鬼の仕事ぶりに当てられたのか、昨日よりは幾分真面目に鍬を振るっている。
「よし、全員一度手を止めろ! 昼休憩だ!」
オークの現場監督が銅鑼を鳴らした。
労働者たちが木陰へ集まり、持参した水筒や弁当を広げ始めた、その時だった。
ドガァンッ!
開墾現場の入り口に立てられていた木製のバリケードが、乱暴に蹴破られた。
乾いた砂煙の中から現れたのは、三人の男たちだった。
革鎧に身を包み、腰には錆びた直剣をぶら下げ、手には粗悪な魔導ボウガンを携えている。その濁った目付きと、下卑た笑い方――紛れもなく、近隣を根城にする山賊のゴロツキたちだった。
「ひっ……!? 山賊だ!」
「に、逃げろ!」
労働者たちが蜘蛛の子を散らすように後退する中、現場監督のオークがおずおずと前に出た。
「あ、あんたら……何の用だ! ここは村の公営開墾地だぞ!」
「あぁん? 公営だぁ?」
先頭に立つ、頬に大きな刀傷のある男が唾を吐き捨てた。
男はオークの胸ぐらを乱暴に掴み上げると、そのみぞおちに膝蹴りを叩き込んだ。
ドカッ!
「グエッ……!」
「寝言抜いてんじゃねぇぞ、豚野郎! ロップのジジイが逃げたせいで、今月の『暴行しない券』の支払いが止まってんだよ! 耳揃えて払えねぇなら、代わりに現場の道具と、テメェらの身ぐるみ全部置いていってもらおうか!」
山賊の男はオークを地面に放り出し、手にした直剣の切っ先を、怯える労働者たちへと向けた。
「おい日雇い共! 今月からみかじめ料は倍だ! 一人頭、銀貨五枚ずつ出しな! 出せねぇ奴は、現場で二度とツルハシが握れねぇように、指を一本ずつへし折ってやるよ!」
ゲラゲラと下品な笑い声を上げる三人の山賊。
労働者たちは青ざめ、財布を差し出そうと震える手で懐を探り始めていた。
その泣き声と悲鳴が響く木陰で。
一鬼は、手元の竹筒から麦茶をゆっくりと一口飲み干した。
ゴクリ、と喉を鳴らし、竹筒の蓋をキュッと閉める。
そして。
地面に突き立ててあった自らの鍬の柄に手をかけると、音もなく、静かに立ち上がった。
ダボついた黒のニッカポッカの裾を揺らし、地下足袋で大地を踏みしめながら、一歩、また一歩と歩み出る。
その足音は驚くほど静かで、しかし、現場の空気を物理的に押し広げるような異様な質量を伴っていた。
「おい、兄ちゃん方」
低く、ざらついた、腹の底を直接揺さぶるような声が響いた。
山賊たちが怪訝そうに振り返る。そこに立っていたのは、晒を巻き、肩に手拭いをかけた、どこからどう見てもただの土木作業員だった。
「あぁん? なんだテメェ、作業着の貧乏人が。命が惜しくねぇのか?」
刀傷の男が鼻で笑い、剣先を一鬼の鼻先へと突きつける。
一鬼は瞬き一つせず、その濁った刃の切っ先を見据えた。
その漆黒の双眸の奥で、静かに、しかし決して消えることのない業火が、パチリと音を立てて爆ぜた。
「……汗水垂らして働くカタギから金を巻き上げるたぁ、どこの組のもんだ? ――ちっと、話をしようや」
昭和の極道、高島一鬼。
筋の通らぬ理不尽を前に、男の背中の不動明王が、静かに目覚めようとしていた。
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