EP 4
『ミリ単位の側溝と、沈黙するニンニク』
ポポロ村の東外れ、山裾へと続く荒れ野。
かつては雑木林だったらしい一帯は、切り倒された木の根やゴロゴロとした岩が転がり、足元には背丈ほどもある頑固な雑草が茂っていた。
「おい、新人! 突っ立ってねぇで、あそこの区画から掘り起こせ! 日が暮れるまでに水路の溝を引くんだよ!」
麦わら帽をかぶった現場監督の豚鬼が、太い棍棒で地面を指しながら怒鳴り声を上げる。周囲に集まった日雇い労働者たちは、冒険者崩れの荒くれ者や、他国から流れてきたチンピラばかりだ。みな気怠そうにツルハシを肩に担ぎ、欠伸を噛み殺しながらダラダラと鍬を土に突き刺していた。
「かったりぃなぁ……。銀貨三枚ポッキリで、こんな岩だらけの土方仕事やってられるかよ」
「適当に掘って、夕方まで時間潰そうぜ」
サボる算段ばかり囁き合う男たちの横で、一鬼は無言のまま、タローマンで買い揃えた黒い手甲の紐をキュッと締め直した。
(時間潰し……か。いけねぇな、そういうのは)
一鬼の胸中に去来したのは、三十五年間過ごしたあの冷たく厳しい刑務所の作業場だった。
そこでは、一秒の怠惰も、一ミリの妥協も許されなかった。規律正しく、無言で、与えられたノルマを寸分違わず達成する。それが懲役囚にとっての唯一の誇りであり、己の罪を噛み締めるための儀式だったのだ。
何より――今は、真っ当に汗を流せば、正当なメシ代がもらえる娑婆なのだ。これほどありがたく、張り合いのある場所が他にあろうか。
「……よし」
一鬼は肩に担いでいた新品の鍬を下ろし、両足の地下足袋で大地をグッと踏みしめた。
丹田に意識を落とし、呼吸を整える。腰を低く落とし、背筋を真っ直ぐに伸ばしたその構えは、土木作業のそれというよりも、真剣勝負を前にした剣客の間合いそのものだった。
――ザンッ!
鈍い、しかし鋭利な音が響いた。
一鬼の振るった鍬が、固く締まった赤土と絡み合う木の根を、まるで豆腐でも切るかのように両断したのだ。
「フッ、ハッ、フッ、ハッ」
規則正しい呼吸とともに、一鬼の両腕が機械のように正確無比なピッチで動き始める。
力任せに叩きつけるのではない。北辰一刀流の刃筋の通し方と同じだ。道具の重みを殺さず、地面に対して最も効率よく刃が食い込む角度をミリ単位で見極め、最小限の力で土を削り取っていく。
掘り出された土は、手際よく脇へと跳ね上げられ、綺麗な盛り土となって固められていく。
大人の頭ほどもある邪魔な岩に突き当たっても、一鬼の眉は微動だにしない。ツルハシを持ち替えるまでもなく、鍬の角をテコの支点として岩の隙間に滑り込ませ、体重移動だけでゴロリと一瞬で浮かせ、道端へ転がしてしまう。
「おい……見ろよ、あいつ」
「な、なんだあのスピード……!? 魔導ショベルでも動いてんのか!?」
サボっていた労働者たちが、次々と手を止めて目を丸くした。
一鬼が通り過ぎた後には、まるで定規を当てて削り取ったかのような、完璧な直線の側溝が現れていた。深さは均一、底面は平らにならされ、水が滞りなく流れるよう、わずかな傾斜角まで完璧に計算されている。
三十五年間の木工・石工刑務作業で培われた『職人の目』が、異世界の荒地で恐るべき精度を発揮していた。
作業開始からわずか一時間。
本来なら十人がかりで半日かかるはずの区画が、一鬼ただ一人の手によって、美しすぎる水路へと変貌を遂げていた。
額に心地よい汗を浮かべ、手拭いで首筋を拭う一鬼の姿に、現場監督のオークは顎が外れそうなほど口を開けて硬直していた。
「な、なんて美しい法面だ……。あいつ、前世で治水神の弟子でもやってたのか……?」
そんな職人技の無双劇が繰り広げられていた、その時である。
モコモコモコッ!
一鬼が掘り進めていた先の土が、不自然に盛り上がった。
土煙を散らして姿を現したのは、大人の拳骨ほどもある、丸々とした白い塊――に、細い手足が生えた奇怪な生物だった。
ポポロ村の怪異農作物、喋る香味野菜『ガーリッ君』である。
「ぷはぁーっ! 今日もいい天気! 日光浴最高〜〜!」
ガーリッ君は、頭の上に生えた青い芽をピコピコと揺らしながら、短い手足をパタパタと動かした。そして、目の前で作業着を着て立っている一鬼の姿を捉えるや否や、醜悪な笑みを浮かべた。
「おやぁ〜〜!? 見ない顔だねぇ! 新入りの土方のおっちゃんかい!?」
開口一番。
ドブ川の底に溜まったヘドロと、腐った卵を濃縮して煮詰めたような、凄まじい悪臭がブワリと周囲に撒き散らされた。風下にいた他の労働者たちが「ウグッ!?」「出た、ガーリッ君だ! 鼻がもげるぅ!」と悲鳴を上げて散り散りに逃げ出していく。
だが、一鬼は逃げない。
長年、下水道掃除や便槽汲み取りといった懲役作業も黙々とこなしてきた彼にとって、悪臭耐性は一般人の比ではなかった。ただ静かに、眉間をわずかに寄せるだけにとどめる。
それに気を良くしたのか、ガーリッ君はトコトコと短い足で駆け寄ると、一鬼の地下足袋の足首にペタッと抱きついてきた。
「ねぇねぇ! オジサン、肌の色ツヤ悪くない? てか目の下のクマやばくない!? 昨日の夜何時に寝たのぉ〜〜? まさか前の現場で仕事ができなさすぎてクビになって、行くアテがなくてこんなド田舎に流れ着いた口ぃ〜〜!?」
ペラペラと、聞いてもいない下劣な邪推を機関銃のようにまくし立ててくる。
さらに、ガーリッ君の口臭は勢いを増し、周囲の大気を黄色く染め上げる勢いだった。
「だよねぇ! その歳で日雇いなんて惨めだもんねぇ! あ、そうそう! オジサンの奥さん、若い男と駆け落ちしたって本当ぉ〜〜!? ねぇ聞いてるぅ〜〜!? ワシの話聞いてるぅ〜〜〜〜!?」
悪臭を撒き散らしながら、一鬼の脛をペチペチと叩く白い球根。
一鬼は、作業の手を止めた。
手に持っていた鍬の柄を、カツン、と静かに地面に突く。
そして――ゆっくりと、首を真下へと傾けた。
スッ……。
一鬼の双眸から、一切の感情が消え失せた。
三十歳の秋、自らを裏切り、親分を謀殺した敵対組織の組長を至近距離で射殺した時の、あの氷点下の虚無。
それに加えて、三十五年間、鉄格子の向こうで無数の死刑囚や凶悪犯たちと対峙し、睨み合い、言葉少なに命のやり取りを制してきた、本物の修羅の眼光。
それが、一切の手加減なしに、足元の小さなニンニクへと直射された。
「…………」
音すらなかった。
闘気でもない。魔力でもない。
ただ、一人の人間が三十五年かけて魂の奥底に澱のように沈殿させてきた、純度百パーセントの『死の気配』。
「……ぎ」
ガーリッ君の口から、掠れたような小さな音が漏れた。
さっきまで甲高く喋り散らかしていた舌が、鉛のように凍りついている。
ガーリッ君の全身の細胞が、生まれて初めて「捕食者」ではなく「死そのもの」を認識していた。
(あ、これ……喋ったら……死ぬ……)
ニンニクの白い肌が、みるみるうちに恐怖で青ざめ、土気色へと変色していく。
一鬼は何も言わない。怒鳴りもしないし、鍬を振り上げることもない。
ただ、底知れぬ深淵のような瞳で、ゴミを見るように、あるいは物言わぬ石ころを見るように、冷酷に見下ろしているだけだ。
「おい、坊主」
低く、腹の底を揺らすようなドスの利いた声が、頭上から降ってきた。
「……人の足元にまとわりついて、くだらねぇ法螺吹いてんじゃねぇぞ。……土の中に、還れ」
「ヒィィィィィィィッッッ!!!!」
ガーリッ君は、この世の終わりを目撃したような絶叫を上げた。
口からブクブクと大量の白い泡を吹き出し、痙攣しながら一鬼の足首から手を離すと、自らの細い手足を使って猛烈な勢いで地面を掘り始めた。
ガガガガガガガガッ!!
時速百キロは出ているのではないかという凄まじい掘削速度で、自ら土の中へ潜っていく。
わずか二秒後。荒れ地には小さな盛り土と、ひび割れた穴だけが残り、あの悪名高い喋るニンニクは、気配すら完全に消し去って地中深くへと逃げ去っていった。二度とこの地上には戻ってこないであろう、凄惨な逃走劇だった。
静寂が戻った荒れ地。
遠巻きに見ていた現場監督のオークと労働者たちは、全員が立ったまま失禁しそうな顔で震え上がっていた。
あの、村中の農家が防毒マスクをつけて鍬で殴り倒しても黙らなかった害悪野菜が――ただ睨まれただけで、泡を吹いて自ら埋没したのだ。
「……ふぅ。やれやれ、妙な生き物もいたもんだな」
一鬼は小さく肩を竦めると、首に巻いた手拭いで汗を拭い、再び鍬を構え直した。
先ほどまでの凍りつくような殺気は綺麗さっぱり霧散し、そこには再び、真面目だけが取り柄の無骨な土木作業員の姿があった。
「監督さん! この先の区画も、同じように水路引いちまってよろしいんで?」
一鬼が振り返り、腰の低い声で尋ねる。
オークの現場監督は、直立不動の姿勢のまま、首がもげそうな勢いで何度も上下に振った。
「は、ひゃいッ!! お、仰せの通りに! どうぞお好きに掘ってくださいませぇぇぇッ!!」
敬語を叫びながら敬礼する監督を不思議そうに見つめつつ、一鬼は「よし、もうひと踏ん張りだな」と呟き、再び美しい直線を描く溝掘りへと没頭していった。
夕暮れ時、ポポロ村の東外れには、工期を三週間前倒しで完了させた伝説の水路と、全身泥だらけになりながら充実した笑顔を浮かべる一人の元ヤクザの姿があった。
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