EP 10
『夕暮れの畑と、黒い影』
賑やかな収穫の宴が終わり、コーポの炊事場を綺麗に片付け終えた頃。
ポポロ村の空は、息を呑むほど鮮やかな茜色と紫紺のグラデーションに染まり始めていた。
一鬼は、タローマンの地下足袋で静かに土を踏みしめながら、村の東外れ――自らの手で切り拓いた三十坪の畑へと戻ってきていた。
西日に照らされた黒土は、まるで熟成された鉄のようにしっとりと黒光りしている。きれいに立てられた畝、健やかに葉を広げる太陽芋の苗、そして先ほど極上の実りを恵んでくれた樫の原木。
「……いい風だ」
一鬼は腰に手を当て、深く、ゆっくりと呼吸を吸い込んだ。
三十五年前、敵対する組長を弾き、冷たいコンクリートの四畳半に放り込まれた時、自分の人生はあそこで完全に終わったと思っていた。誰かを傷つけ、己の血を削り、暗闇の中で罪を数えるだけの残照。
それがどうだ。
今、自分の目の前には、額に汗して耕した大地があり、腹を満たしてくれる温かい実りがある。そして何より、飯を美味いと笑って食ってくれる、奇妙で温かい仲間たちがいる。
カタギとして、真っ当に生きる。
かつて夢見ることすら許されなかった素朴な極楽が、確かにここにあった。
「……イチキさん」
柔らかな足音とともに、背後から澄んだ声がかかった。
振り返ると、夕暮れの風に銀白色のショートボブを揺らしながら、キャルルが歩み寄ってくるところだった。
白のオーバーサイズパーカーのポケットに両手を突っ込み、少し照れくさそうに、しかし真っ直ぐなルビー色の瞳で一鬼を見つめている。
「村長さん。……こんな夕暮れ時に、畑の見回りですかい」
「ううん。見回りじゃないよ。……イチキさんに、会いに来たの」
キャルルは一鬼の隣に並び、並んで夕日に染まる畑を見つめた。
ふわりと、手縫いの人参柄刺繍ハンカチから移ったのであろう、甘く清らかな香りが風に乗って届く。
彼女の長い純白の兎耳が、ピコピコと愛らしげに揺れていた。
「ねぇ、イチキさん。……この村での暮らし、少しは気に入ってくれた?」
「へぇ」
一鬼は穏やかに目尻を細め、手拭いで首筋を拭った。
「気に入るどころの騒ぎじゃありやせんよ。朝起きて、土をいじって、真っ当に汗を流す。夜になりゃ、畳の上で足を伸ばして眠る。……俺のような前科者には、もったいねぇほどの果報でさぁ」
「前科者なんて、もう言わないでよ」
キャルルは唇を少し尖らせ、それから一鬼の横顔をじっと見つめた。
「私ね、レオンハートの王宮にいた頃、たくさんの貴族や騎士たちを見てきた。みんな綺麗な言葉で着飾って、笑いながら裏で相手を蹴落とす算段ばかりしてた。……でも、イチキさんは違う。言葉は不器用だけど、誰に対しても筋を通して、嘘をつかない。……心臓の音だって、いつだって静かで、綺麗なんだもん」
キャルルの耳には、いまの一鬼の心音もまた、【毎分五十拍】の揺るぎない凪として届いていた。
自分を前にして邪念を抱くこともなく、偉ぶることもなく、ただ一人の人間として真っ直ぐに立っている。その底知れぬ安心感と器の広さに、キャルルの胸の奥がトクンと甘く疼いた。
「イチキさん」
「へぇ」
「ずっと……ここにいてね? 私、村長として、絶対にイチキさんの畑と日常を守るから。……だから、イチキさんも、ずっと私のそばで……」
キャルルが、そっと一鬼の作業着の袖を掴もうと、華奢な指先を伸ばした――その刹那だった。
――ビィィィィィィィィンッッッ!!!!
突如、ポポロ村の上空に、空気を引き裂くようなけたたましい電子警報音が鳴り響いた。
村落の境界線に張り巡らされた、自警団の魔導哨戒ドローンの緊急侵入アラートだった。
「……ッ!?」
キャルルの兎耳が、雷に打たれたようにピンと跳ね上がった。
一瞬で村長の顔へと戻り、鋭い視線を北西の街道――村の境界線へと向ける。
ドォォォォンッ!!
遠く、村の防衛境界に設置されていた外郭の監視塔から、黒い噴煙と火の手が上がった。
続けて、大地を揺るがすような無数の行軍音。ただの山賊の散発的な略奪ではない。高度に統率された、軍隊規模の重厚な進軍の気配だった。
「な、何事だッ!? 境界の結界が破られたというのか!?」
蹄の音を激しく鳴らし、完全武装のマンミアがパイルバンカーシールド『アグニ』を構えて駆け込んできた。その後ろからは、金算盤を抱えたニャングルが血相を変えて走ってくる。
「キャルル! マンミア! エラいこっちゃ!!」
ニャングルが煙管を放り出し、手元の魔導通信石の受信画面を叩きつけるように見せた。
「北西の街道から、正体不明の武装部隊が侵入してきた! 数はおよそ二百! ただのゴロツキやない……先日イチキの旦那が叩き出した『ルナ・クレセント商会』のダントンが、裏社会の闇ギルドと、あろうことか『深淵・死蟲軍』の残党まで金で雇い入れよったんや!!」
「死蟲軍の残党……ですって!?」
マンミアの顔から血の気が引いた。
かつて世界を滅亡寸前まで追い込んだ、機械化蟲群の生体兵器。その残党が、一村落の私怨の報復に投入されたというのだ。
「ダントンの狙いは一つや! 商会のメンツを潰したポポロ村の完全殲滅……そして、村長公邸のずっ友ロコシを叩き割った『作業着の男』――イチキの旦那の首級や!!」
ニャングルの言葉に、キャルルのルビー色の瞳が怒りと殺気で燃え上がった。
彼女の小柄な身体から、音速の闘気マナがバチバチと漏れ出し、タローマン特注安全靴の踵が大地を削る。
「私の村を……そして、イチキさんを標的にするなんて……! 絶対に、許さない……!!」
満月ではない。だが、村長としての責任と、何より「大切な男を奪われようとしている」という激しい独占欲が、彼女のリミッターを強引に引き剥がそうとしていた。
だが。
駆け出そうとしたキャルルの肩に、トン、と静かに大きな手のひらが置かれた。
「……っ、イチキさん?」
キャルルが振り返る。
そこに立っていた一鬼は、怒り狂うこともなく、怯えることもなく、ただいつものように手拭いで額の埃を払っていた。
しかし――その立ち姿の奥から立ち上る「気配」が、わずかに変質していた。
夕闇の帳が落ちる中、男の背後の空間が、物理的に歪むような錯覚を覚える。
麻の作業着越しに透けて見えるのは、かつて昭和の暗黒街で刻み込まれた、不動明王の猛火の残照。
「村長さん」
一鬼の口から紡がれたのは、低く、腹の底を直接揺らすような、静謐なドスの利いた声だった。
「若い娘さんが、そんな鬼のツラをするもんじゃありやせんよ。……シマを守るってなぁ、男の仕事だ」
「で、でも……相手は軍隊規模の暗殺部隊なんだよ!? 魔導兵器や化け物まで連れてるんだよ!?」
「ええ、分かっておりやす」
一鬼は静かに歩みを進め、畑の畝を傷つけぬよう、ゆっくりとあぜ道へと出た。
そして、左の腰――白木の鞘に収まった、無骨な一本のポン刀の柄頭へと、そっと指先を滑らせた。
――チャキッ。
澄み渡るような冷たい鍔鳴りの音が、夕暮れの戦場に凛と響き渡る。
鯉口が切られ、漆黒の刃先が、三寸ばかり宵闇の中へと姿を現した。
「泥まみれになって耕した畑を踏み荒らし、真面目に生きる人間の平穏を脅かそうってんなら……相手が商会だろうが、化け物だろうが、関係ねぇ」
一鬼は振り返り、キャルル、マンミア、ニャングルの三人を静かに見据えた。
その双眸に宿るのは、三十五年間の孤独に耐え抜き、己の信念のために敵対組長のタマを取った、本物の修羅の眼光。
「スジの通らねぇ理不尽には……キッチリと、落とし前をつけてもらいまさぁ。――仁義、通させてもらいまっせ」
初秋の夜風が吹き抜ける中、一鬼の地下足袋が、静かに夜の闇へと踏み出された。
真っ当に生きようと誓った元無期懲役の極道が、大切な「我が家」と「仲間たち」を守るため――再び、北辰一刀流の刃を抜き放つ。
ポポロ村の命運を賭けた、真の死線が、今ここに幕を開けようとしていた。
(第2部・完 / 第3部へ続く)
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