EP 9
『至高の肉椎茸ステーキ丼』
めぐる季節は早く、初夏を通り越して盛夏の熱気がマンルシア大陸を包み、やがて初秋の涼やかな風がポポロ山の山裾を撫でる頃。
一鬼が丹精込めて手入れを続けてきた東の開墾地三十坪は、いまや村のどの古参農家も目を見張るほどの、美しい黒土の菜園へと変貌を遂げていた。
ネギオから譲り受けた遮光シートを張り巡らせ、風通しと湿度のバランスを毎朝毎夕、指先の感覚で確かめ続けた樫の原木。
その樹皮を押し破るようにして――異様な存在感を放つ『黒い宝玉』が、鈴なりに実を結んでいた。
「……見事なもんだ。よく育ってくれたな」
一鬼は腰を落とし、原木にびっしりと生え揃った巨大なキノコを愛おしそうに見つめた。
大人の顔ほどもある極厚の傘。表面はビロードのような深黒のキチン質表皮に覆われ、軸は牛のヒレ肉のごとく太く引き締まっている。傘の裏側のヒダをそっとめくれば、和牛の最高ランクを思わせる純植物性のサシが、まるで霜降りの脂のように白く網目状に差し込んでいた。
マンルシア大陸屈指の特異菌類――『肉椎茸』。
素人が育てればゴムタイヤ草と化す気難しい魔導作物が、一鬼の狂気的な几帳面さと愛情によって、最高品質の状態で初収穫の朝を迎えていた。
「よし、約束を果たさなきゃならんな」
一鬼はヒエンが神火で鍛え直してくれた小刀を抜き、原木を傷つけぬようミリ単位の刃筋で軸の根元を切り離していった。
籠いっぱいに収穫された肉椎茸は、十数株。手押し車に乗せると、ずっしりとした手応えとともに、香木を燻したような芳醇なスモーキーフレーバーが立ち上った。
*
正午。ポポロ・コーポ一階の共同炊事場。
そこには、一鬼の呼びかけに応じた長屋の面々が、今か今かと色めき立って集まっていた。
「おいイチキ! 本当にあの原木から収穫できたのか!? 俺の種菌とはいえ、初年度にここまで立派な肉椎茸が実るなんて聞いたことねぇぞ!」
二階から駆け下りてきた半神の鍛冶屋ヒエンが、籠の中のキノコを見て目を丸くする。
「……フン。驚嘆に値するな。大気中マナの吸収効率、直射日光の完全遮断、そして土壌水分の徹底管理。感情論の農法かと思いきや、結果として極めて高度な栽培プロトコルを完遂したわけだ。私の遮光シートの減価償却費も、これでようやく回収されるというものだな」
工房から呼び出されたネギオが、ポポロシガーを燻らせながら眼鏡を押し上げた。口では屁理屈を並べ立てているが、その青い葉先は嬉しそうにピコピコと跳ねている。
「うわぁぁぁ……! すっごい、お肉の匂いがする! イチキさん、これ全部食べちゃっていいの!?」
白のパーカーの袖を捲り上げたキャルルが、ルビー色の瞳を爛々と輝かせて身を乗り出す。その隣では、自警団長のマンミアが「し、淑女がそのようなはしたない……」と窘めつつも、四肢の蹄をソワソワと踏み鳴らし、鼻腔をピクピクさせていた。
「ふん、待たせやがって。我がスープの灰汁取りを手伝った褒美だ、貴様のキノコ焼き、毒見してやるぞ」
腕組みをした竜王デュークが暗色のコートを翻して仁王立ちし、その足元では、狼王フェンリルが腹を空かせた野良犬のような顔で「早く焼けよオッサン、涎が止まらねぇ」と催促する。
さらには中庭の窓から、芋ジャージ姿のリーザが「タダ飯の神様ぁーっ!」と首を突っ込んでいた。
「へぇ、皆さんお揃いで。……手前味噌ですが、腕によりをかけて拵えまさぁ」
一鬼は黒のニッカポッカの袖をまくり、手拭いで髪を縛ると、平鍋の前に立った。
まな板の上で、肉椎茸を切り分ける。
トントントン、と心地よい刃音。切り口の厚みは、豪快極まる【四センチ】。断面からは、包丁を入れただけで植物性の甘い脂がジュワリと滲み出していた。
平鍋に、太陽芋から搾った澄んだ油を薄く引く。
煙が立ち上る直前、肉椎茸の切り身を一気に並べ入れた。
――ジュワァァァァァッッッ!!
爆ぜるような激しいソテー音。
立ち上ったのは、極上の牛ヒレ肉を直火で焼き付けた時と全く同じ、脂の香ばしいアロマ。そこに椎茸特有の濃厚なアミノ酸の香気が重なり、炊事場の中は一瞬にして高級ステーキハウスの厨房へと変貌した。
「ぐわぁぁっ!? 匂いだけで飯が三杯食えるぞ!」
「あかん……! あかんあかん、こんなもんタダで振る舞うたら、ポポロ村の飲食店の経済圏が完全に崩壊してまうやろが!」
いつの間にか嗅ぎつけてやってきたニャングルが、金算盤を抱えて胃を押さえながら叫ぶ。
一鬼は一切の動揺を見せず、木べらを使って肉椎茸の上下を返した。
表面には、美しいキツネ色のキャラメリゼ。中はレアの弾力を残した絶妙な火加減だ。
そこへ――清流沿いで採取した『醤油草』の本醸造生絞りダレを、鍋肌から一気に回し入れた。
――バチバチバチッ!! ジュワァァァッ!!
焦がし醤油の暴力的な香ばしさが爆発する。
タレが肉椎茸のサシと溶け合い、トロリとした黄金の照りを帯びて絡みついていく。
「盛り付けだ。キャルルさん、丼を頼めやすかい」
「は、はいっ! 任せて!」
キャルルが手際よく配った大きな丼の中には、炊きたて熱々の米麦草がこんもりと盛られている。
一鬼はその銀シャリの頂点へ、焼き上がった極厚の肉椎茸ステーキを豪快に二枚、ドカンと鎮座させた。
フライパンに残った焦がし醤油タレをたっぷり回しかけ、頂点には清流で擦り下ろした『ツンツン山葵』をひと匙、そして香ばしい刻み海苔を雪のように散らす。
「――お粗末。初物、『肉椎茸ステーキ丼』でございやす」
*
土間に並べられた長机の上。
全員の前に置かれた漆黒の丼からは、黄金色の湯気が立ち上っていた。
「……いただきますッッ!!」
合図とともに、全員が一斉に箸を突き立てた。
キャルルが、厚さ四センチの肉椎茸を端から思い切り頬張る。
サクッ……ジュワァァァァッ……!
「んんんんんっっっ!?」
キャルルのルビー色の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
歯を入れた瞬間、カリッと香ばしく焼き固められた表面が弾け、中から熱々の肉汁が奔流となって口腔を満たした。
脂っこさは微塵もない。A5ランクの和牛のような濃厚なコクがありながら、後味はどこまでも清らかな原木椎茸の出汁の芳醇さ。
噛み締めるたびに、繊維がほぐれ、焦がし醤油のタレが米麦草の甘いご飯と渾然一体となって喉を滑り落ちていく。
ツンと鼻を抜ける山葵の清涼感が、極上の脂を完璧に引き締めていた。
「な……なにこれ……っ! お肉……ううん、お肉よりジューシーで、お肉より味が深くて……噛むのが止まらないよぉぉぉっ!!」
キャルルは丼を抱え込み、ガツガツと猛烈な勢いで掻き込み始めた。
「うむ……! これは……!」
頑固な竜王デュークが、目を細めて呻いた。
「我が数千年の生涯で食した数多の魔獣肉をも凌駕する滋味よ。火の通しが完璧だ。外は剛、中は柔……これぞ真の職人の仕事。我が屋台のラーメンのチャーシューとして、今すぐ百枚納入しろ一鬼!」
「うめぇぇぇっ! なんだこれ、タローソンの廃棄弁当が泥水に思えてくるぜ!」
フェンリルが涙を流して二杯目を平らげ、窓の外のリーザは「一鬼様ぁーっ! 五円玉ならあと三枚ありますから、おかわりを! おかわりをお恵みくださいましぃーっ!」と絶叫している。
「美味い……美味いぞ、一鬼さん!」
ヒエンが米粒を頬につけたまま笑い、ネギオは紫煙を消して黙々と箸を進め、「……素材の潜在能力を百二十パーセント引き出している。減価償却どころか、法外な付加価値の創出だな」とボソリと呟いた。
マンミアもまた、普段の厳格さを完全に忘れ、「ふふ……美味しい……こんな美味しいものを毎日食べられるなら、お嫁に行けなくてもいいかも……あ、でもやっぱり行きたい……」と情緒不安定になりながら完食していた。
大鍋二つ分に炊いた米麦草と、十数枚の肉椎茸ステーキは、瞬く間に全員の胃袋へと吸い込まれていった。
土間には、満腹になった猛者たちの幸せそうな吐息だけが満ちていた。
「……ふぅ。喜んでもらえて何よりだ」
一鬼は自分の取り分であった小さな茶碗のステーキ丼を静かに平らげ、手拭いで口元を拭った。
自分の汗で耕し、自分の手で育て、仲間たちと分け合って食う飯。
三十五年間、奪うことしか知らなかった元極道の心に、じんわりと温かい誇りが満ちていく。
その時。
スッ、と横に誰かが寄り添ってきた。
見上げると、キャルルが一鬼の真隣にちょこんと正座し、頬を桜色に染めてじっとこちらを見つめていた。
長い純白の兎耳が、一鬼の胸元へとピンと向けられている。
「……美味しかった、イチキさん」
「へぇ。村長さんにそう言っていただけると、耕した甲斐がありやす」
「あのね、イチキさん」
キャルルは両手を膝の上でぎゅっと握りしめ、上目遣いに一鬼の黒い瞳を覗き込んできた。
その瞳の奥には、深い敬愛と――そして、底知れぬ熱を帯びた光が揺らめいている。
「私ね……決めたの」
「……何をですかい?」
「イチキさんの作ったご飯、これから毎日、私が一番最初に味見する係になる! ……ううん、一生、私がイチキさんのご飯を食べてあげる」
キャルルの顔が、一鬼の胸元へあと数センチの距離まで急接近する。
兎耳が拾い上げるのは、やはり【毎分五十拍】の完全な凪。
だが、その静寂が、今のキャルルにはたまらなく愛おしく、そして独占したい宝物のように思えていた。
「どこにも行っちゃダメだよ、イチキさん? 畑仕事も、ご飯作りも、ずーっとこのポポロ村で、私のそばでやってね……? もし村の外へ逃げようとしたら……私、満月の夜に音速で追いかけて、この安全靴で壁ドンしちゃうんだから……♡」
「……はぁ。逃げる気なんぞありやせんよ。ここは俺の、大切な長屋ですから」
一鬼が穏やかに笑うと、キャルルは「ふふっ♡」と嬉しそうに微笑み、一鬼の作業着の袖をぎゅっと握りしめた。
背後で、マンミアが「そ、そんな露骨に距離を詰めるなんて破廉恥な……! でも羨ましい……!」と悶絶し、ニャングルが「おいおい、ウサギの姫さん、完全にガチ惚れの目つきになっとるやんけ……脳がバグるわ」と煙管を噛んでいた。
秋の陽射しが、共同炊事場を柔らかく照らす。
元極道が手に入れた、温かく、少しだけ騒がしい、かけがえのない日常の絶頂だった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




