EP 2
『若返った躰と、抜かぬ拳』
どこまでも続く、未舗装の土の道。
一鬼は、春の陽気のような暖かな風を全身に受けながら、ゆっくりと歩を進めていた。
一歩、また一歩と歩くたびに、己の肉体の変化に驚かされる。
三十五年の懲役生活で、彼の肉体は確実に老い、すり減っていた。冬になれば膝の関節が軋み、長時間の作業では腰に鈍痛が走ったものだ。だが今はどうだ。足取りは羽のように軽く、肺は新鮮な空気をどこまでも深く吸い込むことができる。
「……信じられねぇな」
ぽつりとこぼした呟きすら、若々しく張りのある声だった。
一鬼は道の端で立ち止まり、ふと目を閉じた。両足を肩幅に開き、重心を丹田――へその下へと落とす。そして、ゆっくりと右足を前へ滑らせた。
スッ、スッ、と。
地面を擦るように移動する『摺り足』の歩法。
三十歳の秋、人を殺めて冷たい独居房に入れられてから、彼から剣は取り上げられた。だが、己の罪と向き合う無言の歳月の中で、彼はただひたすらに頭の中で剣を振り続けた。
北辰一刀流。若き日に道場で叩き込まれたその型を、木刀すら持てない狭い房の中で、何百万回、何千万回と反復し続けた。
仮想の敵を想定し、仮想の刃を振り下ろす。
肉体は老いていくのに、脳内の刃は年を追うごとに研ぎ澄まされていった。
一鬼は、見えない刀の柄を両手で握るようにして、静かに正中線を割るように両腕を振り下ろした。
――ヒュッ。
ただ素振りの動作をしただけだというのに、大気が鋭く裂けるような音が鳴った。
一鬼自身が一番驚いて、目を見開いた。
「……なるほど。頭の中の『感覚』に、二十代の『肉体』が完全に追いついてやがる」
極限まで削ぎ落とされた六十五歳の老剣士の技術と精神。それが、全盛期の二十代の肉体に宿っているのだ。魔力だのチートだのという小手先の力などなくとも、この肉体と技術さえあれば、大抵の無理は通る。一鬼はそう確信した。
「とはいえ、もう人様を斬るような真似はしねぇ。……これからは、この身体で畑を耕して、真っ当に稼ぐんだ」
自戒するように深く息を吐き出し、見えない刀を鞘に納める動作(残心)をした、その時だった。
ガサガサッ!!
街道脇の背の高い草むらが揺れ、低い唸り声が響いた。
一鬼は姿勢を崩さず、流し目で声の方向を捉える。
茂みを掻き分けて姿を現したのは、二頭の異形の獣だった。
一頭は、軽自動車ほどもある巨大な猪。その口元からは、大人の腕ほどもある鋭い牙が上に向かって反り返り、凶悪な威圧感を放っている。
もう一頭は、血走った目をした狼のような野犬型の獣だ。口から粘り気のある涎を垂らし、一鬼の喉元をじっと見定めている。
牙猪と、凶犬。
この世界における低級の魔獣である。彼らは獲物を狩る際、相手の体から発せられる『魔力』や『闘気』の量で強さを測る習性があった。
今の彼らの目に映る一鬼は、丸腰のうえに闘気すら一切発していない、ただの「無力で美味しそうな肉」でしかなかった。
「……物騒な野犬に、随分とデカい猪だな」
一鬼は静かに呟いた。
恐怖はない。心拍数すら一切乱れていない。
彼がかつて身を置いた極道の修羅場では、チャカ(拳銃)を隠し持ったヒットマンがいつ背後から発砲してくるか分からない、血の凍るような死線が日常だった。それに比べれば、真正面から殺気を撒き散らして歩いてくる獣など、児戯に等しい。
「グルルルルッ……!」
凶犬が、たまらず地面を蹴った。
時速六十キロにも達する猛スピードで一直線に迫り、一鬼の喉笛を食いちぎらんと鋭い牙を剥き出しにして跳躍する。
対する一鬼は、微動だにしなかった。
ただ静かに、道端に落ちていた手頃な太さの樫の枝を、足の甲で器用に拾い上げ、右手に握り込んだだけだ。
凶犬の牙が、一鬼の喉元に届く――そのコンマ一秒前。
「……遅ぇな」
一鬼は、左足をわずかに半歩だけ後ろへ引いた。
たったそれだけの、最小限の体捌き(見切り)。
凶犬の顎が空を切り、空中で無防備な腹と首元を晒した瞬間、一鬼の右手に握られたただの木の枝が、神速の軌道を描いた。
――パァンッ!!
それは、斬撃でも刺突でもない。
剣の理合を用いた、極めて精密な『当て身』だった。
枝の先端が、凶犬の首の付け根――神経の束が集中する急所を、ミリ単位の狂いもなく正確に叩き抜いたのだ。
「キャゥッ……!?」
脳への伝達信号を強制的にシャットダウンされた凶犬は、着地することなく白目を剥き、ボロ雑巾のように地面へ転がってピクピクと痙攣した。骨の一本も折ってはいない。ただ、意識のスイッチを物理的に切っただけだ。
「ブモォォォォオオオッ!!」
仲間が一瞬で沈められたことに激昂した牙猪が、土煙を上げて突進してくる。
数トンの質量を持つ肉の塊が、大木をもへし折る勢いで一鬼を轢き殺そうと迫る。まともにぶつかれば、人間の骨など粉々になるだろう。
だが、一鬼の目は冴え渡っていた。
大きく見える敵ほど、攻撃の軌道は単調になる。三十五年間、独居房の中で何万回とシミュレーションした『後の先』の理合が、ここで完全に噛み合う。
「シッ!」
一鬼は短く呼気を吐き、突進の軌道から滑るように半身を逸らした。
牙猪の巨大な身体が、鼻先を掠めて通り過ぎていく。
そのすれ違いざまの、ほんの刹那。一鬼は手にした樫の枝を、下段から上段へと軽々と跳ね上げた。
――ゴツンッ。
枝の腹が、牙猪の耳の後ろ――延髄の急所を、正確無比な角度と力加減で強打した。
大質量を支えていた三半規管と脳幹に、鋭利な衝撃波が突き刺さる。
「ブギッ……!?」
時速数十キロで突進していた牙猪は、己の足がもつれ、そのままつんのめるようにして地面に激突した。ズドォォン!という重い地響きとともに土煙が舞い上がり、そのままピクリとも動かなくなった。
静寂が戻った街道。
一鬼は、手にした樫の枝を見た。激しい打撃を加えたというのに、枝は折れるどころか、ひび割れ一つ起きていない。インパクトの瞬間、手首のスナップと重心移動だけで威力を伝えきった証拠だった。
「……いい木だ」
一鬼は小さく頷くと、気絶している二頭の獣を見下ろした。
どちらも腹は上下に動き、息をしている。数時間もすれば目を覚まして、森へ逃げ帰るだろう。
「無駄な殺生はいけねぇ。……俺はもう、真っ当なカタギとして生きるって決めたんだからな」
自らに言い聞かせるように呟くと、一鬼は枝を道端にそっと置き、二頭の獣に向けて軽く手を合わせた。命を奪わずに済んだことへの、神仏へのささやかな感謝だった。
極道としての修羅の道を歩んだ男は、もう二度と己の手を血で汚したくはなかったのだ。
ふと視線を上げると、街道の先、二股に分かれた道の脇に古びた石の道標が立っているのが見えた。
この世界の文字など習っていないはずだが、どういうわけか、石に刻まれた文字の意味が自然と頭の中に浮かび上がってきた。ルチアナという女神が施した、最低限の翻訳の恩恵だろう。
『この先、ポポロ村』
「ポポロ村……か。まずは、あそこへ行ってみるか。日雇いの土方でも、畑仕事でも、何かしら飯の種くらいはあるだろう」
一鬼は首の後ろをバリボリと掻き、雪駄の代わりに履いていた支給品の粗末な靴で、しっかりと土を踏みしめた。
目指すは、真っ当な勤労と、温かいメシ。
胸に希望を抱きながら、一鬼はのどかな農村へと続く道を、ただ静かに歩き出した。
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