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第一章『出所、そしてポポロ村の日雇い開墾編』

『お勤め、三十五年』

三十五年ぶりの娑婆の空気は、ひどく冷たくて、そしてひどく澄んでいた。

高島一鬼(たかしま・いちき)、六十五歳。

鈍色の高い塀を背にして、彼は深く、ゆっくりと息を吸い込んだ。肺の奥まで入り込む外の空気は、三十五年もの間嗅ぎ続けたコンクリートと消毒液の匂いとは違う、土とアスファルトと、生きている人間の匂いがした。

三十歳の秋だった。当時所属していた組の親分が騙し討ちに遭い、その報復として単身で敵対組織の事務所へ乗り込んだ。組長をチャカで弾き、その足で警察署へ出頭した。

無期懲役。それが、彼に下された判決だった。

鉄格子の向こう側で、己の罪を数え、ただひたすらに規則正しい日々を送った。朝六時半に起床し、毛布を角が立つように畳み、無言で飯を食い、無言で作業に打ち込む。残された時間は、ひたすらに目を閉じ、若い頃に叩き込まれた北辰一刀流の型を脳内で反復し続けた。

そうして三十五年が経ち、仮釈放という形で一鬼は再び空の下へと出た。

出迎える者は誰もいない。かつての組はとうの昔に解散し、知る顔は全員鬼籍に入っている。残されたのは、支給されたわずかな路銀と、白髪混じりになった己の老体だけだった。

「……まずは、腹ごしらえといくか」

すっかり様変わりした街並みを歩き、ガラス張りの明るい商店――コンビニエンスストアという場所に入った。レジの横で湯気を立てていた『肉まん』というものを一つ買い、近くの公園のベンチに腰を下ろす。

熱々のそれを二つに割り、一口かじる。

途端に、甘い肉の脂とふかふかの生地の温かさが口いっぱいに広がった。

「……美味ぇな」

たったそれだけのことで、一鬼のシワの刻まれた目尻から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

生きて、娑婆の飯を食っている。その事実が、凍りついていた心を容赦なく溶かしていく。これからは、極道としてではなく、一人のカタギとして、真っ当に汗水垂らして生きていこう。日雇いでも何でもいい。誰にも迷惑をかけず、静かに土をいじって暮らしたい。

そう誓い、最後の一口を飲み込もうとした、その時だった。

『キキィィィイイイイッ!!』

けたたましいスキール音とクラクションが、穏やかな公園の空気を引き裂いた。

顔を上げると、居眠り運転だろうか、制御を失った大型トラックが歩道へ乗り上げ、猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。

その直線上に、小さなランドセルを背負った子供が立ちすくんでいる。

考えるよりも先に、一鬼の身体は動いていた。

三十五年間、一日も欠かさず脳内で研ぎ澄まし続けた剣術の歩法。老いた肉体でありながら、その踏み込みは一瞬で数メートルの距離を縮めた。

「危ねぇッ!」

子供の身体を両腕で力一杯突き飛ばす。

直後、一鬼の視界は巨大な鉄の塊に覆い尽くされ――そして、完全な暗闇へと落ちた。

(……まぁ、いい。最期に一つくらい、スジの通ったことができたなら、上等だ)

それが、高島一鬼の六十五年の生涯の終わりだった。

     *

「――あ、起きた? おっちゃん、お疲れ様ー」

パチリと目を開けると、そこは四畳半ほどの奇妙な空間だった。

天井のない謎の部屋の中央には、冬場に見かける『こたつ』が置かれている。その上にはみかんの皮が散乱しており、横には見慣れない薄型のテレビのような箱が置かれていた。

そして一鬼の目の前には、小豆色の芋ジャージをだらしなく着込んだ、銀髪の少女が寝転がっていた。手には缶ビールが握られている。

「……ここは、地獄の釜の底、という認識でよろしいので?」

一鬼は慌てることなく、ゆっくりと身を起こすと、こたつの前で正座をし、深く頭を下げた。相手が何者であれ、目上の存在にはスジを通す。それが彼の生き方だった。

「地獄じゃないよ。私、この世界を担当してる女神のルチアナね。永遠の十七歳だからよろしく」

「女神様、でしたか。これはご挨拶が遅れ、大変失礼いたしました。高島一鬼と申します。以後、お見知りおきを」

極道仕込みの完璧な九十度のお辞儀。

そのあまりに堂に入った所作と、ジャージ姿の女神という絶妙に噛み合わない空気に、ルチアナはビールの缶を置いて少しだけ顔を引きつらせた。

「え、えっとね。おっちゃん、さっきトラックから子供を助けて死んだっしょ? あれ、カルマ値(善行ポイント)が結構高かったのよ。だから、特別に別の世界に転生させてあげることになったわけ」

「……転生、ですか。俺のような前科者が、よろしいのでしょうか」

「いいのいいの。でさ、転生するにあたって、一つだけ『チートスキル』をあげるよ! 魔力無限とか、最強の剣技とか、どんな病気も治せる力とか! 何がいい? 今なら大サービスしちゃうよ!」

ルチアナは、手元の板のような機械(エンジェルすまーとふぉん)を操作しながら、得意げに胸を張った。

しかし、正座をしたままの一鬼は、眉一つ動かさずに静かに首を横に振った。

「お断りします」

「……はい?」

「チート、という言葉の詳細は存じ上げませんが。何やらズルをして得をするようなものと見受けました」

「い、いや、ズルっていうか、ボーナスみたいなもんで……」

一鬼は姿勢を正し、ルチアナを真っ直ぐに見据えた。

その眼光の深さと、三十五年間の孤独に耐え抜いた男の凄みに、神であるはずのルチアナが思わず息を呑む。

「俺は、三十五年間、鉄格子の向こう側で己の罪と向き合ってきた身です。女神様。俺のようなロクデナシに『もう一度生き直す』という機会を与えてくださった。……それだけで、お釣りが来るほど十分すぎる。これ以上、身の丈に合わねぇモノを恵んでもらったら、それこそバチが当たるってもんです」

一切の迷いもない、重く、静かな声だった。

ルチアナはポカンと口を開け、手元のスマートフォンと一鬼の顔を何度も見比べた。これまで何人もの転生者を送り出してきたが、「チートはいらない」と真顔で断ってきた人間など、数千年間の神格公務員生活でただの一人もいなかったからだ。

「え、マジで言ってる? この先行くところ、魔物とか無法者とかウヨウヨしてる超ヤバい世界だよ? 何もなしじゃ、一瞬で死んじゃうよ!?」

「ご心配には及びません。自分の身は、自分で守ります。……ただ、もし一つだけ我儘を聞いていただけるなら」

「な、なに? スキル欲しいの?」

「いえ。三十五年前、娑婆の空気を吸っていた頃の『頑丈な身体』だけ、貸していただけねぇでしょうか。真っ当に汗水垂らして働くには、今の老いぼれた身体じゃあ少々ガタがきておりまして」

ルチアナは、深い溜息をついた。

面倒くさそうな顔をしながらも、その瞳には奇妙な男への微かな興味が宿っていた。

「……変なおっさん。まぁいいや、本人がそう言うなら、初期設定の肉体年齢だけ二十代に巻き戻してあげる。あとは自己責任で頑張ってねー」

ルチアナが指を弾いた瞬間、一鬼の足元がふっと消滅した。

落ちていく感覚の中、一鬼は深々と頭を下げた。

「何から何まで、恩に着ます。……この御恩は、生涯忘れません」

     *

頬を撫でる風の冷たさで、一鬼は目を覚ました。

身を起こすと、どこまでも続く青々とした大草原が広がっていた。見たこともない巨大な鳥が空を舞い、遠くには雪を被った高い山脈が連なっている。

自分の手を見る。

節くれだってシワだらけだったはずの手の甲は、瑞々しく張りを取り戻していた。身体を起こせば、関節の軋みも、腰の痛みも一切ない。腹の底から湧き上がるような生命力が、全身に満ち溢れている。

間違いなく、彼が最も腕力と体力に満ちていた、二十代の全盛期の肉体だった。

しかし、一鬼は着ていた見慣れない麻の服を少しだけ脱ぎ、自分の背中越しに肩越しを振り返った。

そこには、若き日に墨を入れた『不動明王』の刺青が、青々と、かつてのままの姿で刻み込まれていた。

「……過去の罪までは、消えねぇってことだな。上等だ」

一鬼は服を着直し、草の上に立ち上がった。

魔法も知らない。特別な力もない。手元にあるのは、女神が持たせてくれたらしい銅貨数枚の入った小さな袋だけだ。

だが、心は三十五年間で最も晴れやかだった。

「今度こそ、額に汗して、真っ当に生きる。……まずは、飯を食うための仕事探しだな」

元・無期懲役の極道、高島一鬼。

チートを蹴り飛ばした男の、異世界での第二の人生が、今ここに静かに幕を開けた。

読んでいただきありがとうございます。

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