EP 7
『スジの通らねぇトウモロコシ』
「な、なんだテメェはァッ!?」
床に転がり、泡を吹いてピクピクと痙攣する巨漢の仲間を見下ろし、残る三人の傭兵が上擦った声を上げた。
彼らとて、裏社会の修羅場をいくつも潜り抜けてきた手練れだ。だが、目の前の男の動きには、魔力の励起も闘気の爆発も一切なかった。ただの竹箒を振るっただけ。それだけで、ミスリル鋼の直剣を弾き飛ばし、鎧越しに鳩尾を正確に刺突して一撃で沈めたのだ。
「撃て! 蜂の巣にしろォッ!!」
三本の連射式魔導ボウガンが一斉に火を噴いた。
青白い光条を曳く鋼鉄の矢が、狭い密室の中で怒涛の弾幕となって一鬼の全身へ殺到する。常人であれば、壁ごとミンチにされるだけの火力。
だが、一鬼の体はすでに「そこ」にはいなかった。
スッ……。
足裏で床板を滑らせるような、北辰一刀流の神速摺り足。
矢が放たれるコンマ一秒前、引き金に掛けられた指の収縮を看破した一鬼は、最小限の紙一重の体捌きで矢の軌道を潜り抜けていた。
風を裂く矢が、一鬼の耳元を無駄に通り過ぎ、背後の板壁へと深々と突き刺さる。
「ヒッ……消え――」
「遅ぇな」
次の瞬間、先頭の傭兵の視界のすべてが、漆黒のニッカポッカの影で塗り潰された。
一鬼の手にした竹箒が、下段から斜め上方へと鋭く薙ぎ払われる。
――バシィィィンッ!!
「アガッ!?」
竹箒の硬い束が、傭兵の顎骨を下から垂直に跳ね上げた。
首が不自然な角度にのけぞり、ボウガンを取り落としながら宙を半回転して背中から机へ激突する。
着地と同時に、一鬼は竹箒を手放した。
両手が空いた刹那、残る二人が左右から抜刀して斬りかかってくる。
「死ねぇぇぇッ!!」
左右からの挟撃。
一鬼は微動だにせず、左右の手のひらを同時にスッと外側へ開いた。
北辰一刀流・無刀取りの理合。
――パァンッ!!
二本の直剣の刀身が、一鬼の両手の掌底によって、左右同時に完璧な角度で弾き落とされた。金属の甲高い悲鳴とともに、二人の手首が骨ごと軋む。
体勢を崩し、無防備に顔面を晒した二人に対し、一鬼は両足の地下足袋で床を蹴った。
ゴツンッ!!
二人の頭部同士を力任せに鷲掴みにして、正面衝突させる。
鈍い骨の破裂音が室内に木霊し、二人の傭兵は同時に白目を剥いて、崩れるように床へと沈んだ。
所要時間、わずか三秒。
四人の屈強な傭兵は、誰一人として刃物を一鬼の皮膚にかすらせることすらできず、全員が完全沈黙していた。
「ひ……あ……」
執務机の奥で、ダントンが腰を抜かしていた。
さっきまで威張り散らしていた紫のベルベットスーツは汗でぐっしょりと濡れ、シルクハットが床に転がり落ちる。手袋をはめた指先が、ガチガチと痙攣するように震えていた。
「ば、化け物……ッ! な、何者だ貴様……! カグヤ様の直轄都市の特権商会に刃向かって、ただで済むと思って――」
ズシッ……。
一鬼の地下足袋が、静かに絨毯を踏みしめた。
その一歩ごとに、執務室の空気が物理的な質量を帯びて重く沈み込んでいく。
三十五年の服役生活。己の命を投げ捨て、組長の仇を取って冷たい独居房で人生をすり減らした男が放つ、純度百パーセントの「本物の極道の殺気」。
「……直轄都市だか何だか知らねぇがな」
一鬼は机の前まで歩み寄ると、ダントンを見下ろした。
その瞳は、底知れぬ深淵のように暗く、冷たい。
「若い娘さんに刃物を突きつけて、脅して判を押させようたぁ……どこの組の仁義だ? あぁ? 親の顔が見てぇってのは、テメェみてぇな小賢しいタカリ屋のことを言うんだよ」
「ヒィィィッ……!」
ダントンは恐怖のあまり後ずさり、応接ソファの背もたれに後頭部を打ち付けた。
その視線の先で、一鬼の左手が、腰に差した無骨なポン刀の鯉口へと静かに添えられる。
――チャキッ。
澄んだ鍔鳴りの音。
一鬼の右手が柄を捉えた瞬間、ダントンは「死ぬ!」と直感して両手で頭を抱え、目を固く閉じた。
ヒュンッ!!
大気を裂く、目にも留まらぬ抜刀の一閃。
しかし――斬られたのは、ダントンの首ではなかった。
パキィンッ!
乾いた硬質な音が響く。
机の上に置かれていた桐の木箱、そしてその中で黄金色に燐光を放っていた一本の『ずっ友ロコシ』が、寸分の狂いもなく、真っ二つに両断されていた。
断面からは、甘ったるい精神汚染の魔力香が、プシューと音を立てて噴き出している。
「あ……私の、ずっ友ロコシが……!?」
ダントンが茫然と目を見開いた。
一口かじり合うだけで、相手をズブズブの共犯関係に引きずり込み、いかなる汚職も談合も成立させてきた、金貨数百枚に匹敵する禁断の穀物。それが、ただの土方の刀によって、ゴミのように叩き切られたのだ。
「ふん」
一鬼は無造作にポン刀を鞘へ納めると、タローマンの作業袋の中から、ずっしりと重い一袋の包みを取り出した。
荒縄を解いて現れたのは、真っ白な結晶の山――開墾地の野菜の浅漬けを作るために買い込んでおいた、安物の『粗塩』だった。
「お、おい……何を……」
ダントンが怯えの声を漏らす間もなく。
一鬼は容赦なく、両手いっぱいに粗塩を鷲掴みにした。
「――スジの通らねぇトウモロコシなんぞ、食えるかよッ!!」
バッシャァァァァァンッッッ!!!!
「ぎゃああああああああああああっっっっっ!?」
凄まじい勢いで投げつけられた特大の粗塩の塊が、ダントンの顔面に直撃した。
目、鼻、口、そして紫のスーツの襟首にまで、容赦なく塩の結晶が叩き込まれる。
さらに一鬼は、机の上に転がる真っ二つのずっ友ロコシの上にも、ドサリと塩の山をぶちまけた。
――ジュワワワワワワッ……!!
激しい化学反応の音が上がった。
ずっ友ロコシの断面から立ち上っていた甘ったるい精神汚染マナが、純粋な塩分によって瞬時に結晶化し、黒い煙を上げて霧散していく。
禁断の癒着を打ち破る唯一の解除プロトコル――【ソルト・ブレイク(塩対応)】の強制執行だった。
「目が! 目がぁぁぁぁっ! 口の中がしょっぱいぃぃぃっ!!」
ダントンはソファの上でのたうち回り、涙と鼻水を流しながら塩を吐き出した。
その顔から、先ほどまでの卑劣な笑みや、相手を精神支配しようとしていた妖しい光は完全に消え失せていた。
残ったのは、ただの「顔面を塩漬けにされて激痛に悶える中年男」の哀れな姿だけだった。
「……ぷはっ! ごほっ、げほっ……!」
涙を拭い、真っ赤に充血した目で顔を上げたダントンは、一鬼の前に仁王立ちする姿を見て、完全に魂の底からへし折られていた。
一鬼は、作業着の袖をまくり、冷え切った声で吐き捨てた。
「おい、香水野郎」
「ひ、ひぃぃぃっ……!」
「汗水流して土を耕すことも知らねぇで、甘言と暴力でカタギの土地を巻き上げようたぁ……いい度胸じゃねぇか。そんな筋の通らねぇ飯で肥え太った豚に、このポポロ村の土を踏む資格はねぇよ」
一鬼が一歩、前に出る。
その瞬間、ダントンの股間から生温かい液体がじわりと滲み出し、高級絨毯を濡らした。
「……テメェらのその薄汚ねぇ足と馬車で、二度とこの村の敷居を跨ぐんじゃねぇぞ。次、そのツラを村境で見かけたら……次は塩じゃ済まさねぇからな」
「も、申し訳ございませんでしたぁぁぁぁぁっっっ!!」
ダントンは転がるようにソファから飛び降りると、土下座の姿勢で床に額を何度も叩きつけた。
そして、気絶していた四人の傭兵の襟首を必死に引っ張り起こし、引きずるようにして執務室から脱兎の如く逃げ出していった。
ドタバタと階段を駆け下りる足音。
直後、広場から「早く馬を出せ! 全速力で逃げろォッ!!」というダントンの悲鳴と、猛烈な勢いで走り去る魔導馬車の車輪の音が遠ざかっていった。
*
静寂が、執務室に戻った。
床には散乱した粗塩と、真っ二つに割れて完全に枯れ果てたトウモロコシの残骸。
「……ふぅ。やれやれ、掃除の手間が増えちまったな」
一鬼は小さく肩を竦めると、放り出していた竹箒を拾い上げ、散らばった塩と矢を手際よく掃き集め始めた。
その手つきは、先ほど四人の手練れを一瞬で叩きのめした修羅のそれとは到底思えない、ただの几帳面な掃除係の姿だった。
「あ……あの、イチキさん……」
キャルルがおずおずと机の陰から歩み寄ってきた。
そのルビー色の瞳は潤み、長い純白の兎耳が、パタパタと小刻みに震えている。
「助けて……くれたんだね。また、私を……」
「滅相もねぇ。村長さんに怪我がなくて何よりです。……ですが、役場の備品を少しばかり傷つけちまいました。この壁の矢の穴は、後で俺が漆喰で埋めておきまさぁ」
一鬼が腰を折って頭を下げると、キャルルの胸の奥で、ドクン……!と激しい熱が跳ね上がった。
兎耳が拾い上げる一鬼の心音。
四人を瞬殺し、悪徳商人を塩漬けにして追い払った直後だというのに――やはり、【毎分五十拍】の完全な凪。
(……格好よすぎるよ、この人)
自分の命が狙われていたかもしれないのに、気にするのは壁の穴と掃除のことだけ。
そして、見返りなど一切求めず、ただ「筋が通らないから」という理由だけで、大都市の巨大資本を真正面から叩き潰してくれた。
(もう……絶対に離さない。こんな人、世界中どこを探したって他にいるわけない……! 私の……私の村の、私のヒーローなんだから……♡)
キャルルの瞳の奥で、ヤンデレの炎がボウッと勢いを増して燃え盛った。
両手を胸の前でギュッと握りしめ、恍惚とした表情で一鬼の背中を見つめている。
「……ハァ、ホンマに脳がバグるわ」
入口の引き戸の陰から、キセルを咥えたニャングルが呆れ顔で姿を現した。
金算盤をパチパチと弾きながら、床のずっ友ロコシの残骸を爪先で小突く。
「金貨数百枚の価値がある『ずっ友ロコシ』を一刀両断にして、銅貨一枚の粗塩ぶっかけて退散させるたぁな。……収支計算の概念が完全に崩壊しとるで、イチキの旦那」
「旦那。筋の通らねぇ金で手に入れたトウモロコシなんぞ、一文の価値もありやせんよ」
一鬼が箒の手を休めずに答えると、ニャングルは深々と紫煙を吐き出し、それからニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「……まぁ、せやな。あのクソ成金共のケツに粗塩ブチ込んで追い返したんは、最高にええ気味やったわ。今日のところは、アンタのその『狂った算盤』に免じて、役場の修繕費はウチの銀行が全額持ったる」
「へぇ、恩に着ます」
夕暮れの光が、執務室の窓から差し込んできた。
箒で掃き清められた床の上で、一鬼は穏やかな笑顔を浮かべていた。
理不尽を叩き伏せ、大切な仲間たちの居場所を守り抜いた。
だが――ポポロ村の平和が守られた一方で、神々の座す天界と深淵の更生監獄では、この「規格外の元極道」の存在が、さらなる混沌の嵐を巻き起こそうとしていたのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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