EP 5
『魔性のメロンと、仮面夫婦の冷戦』
東の開墾地での朝は、いつものように静かに始まるはずだった。
一鬼がタローマンの地下足袋で土を踏みならし、ヒエンの神火で鍛え直された鍬で畝の脇を整えていた、午前七時。
南風に乗って漂ってきたのは、肥沃な堆肥の匂いでも、朝露に濡れた草の香りでもなかった。
――甘い。
ねっとりと舌へ絡みつくような、熟れた果実の芳香。高級な香水と濃縮シロップを煮詰めてぶちまけたようなその匂いは、嗅ぐだけで頭の芯がぼんやりと痺れ、思考の輪郭をふやけさせる魔性を孕んでいた。
「……なんだ、こりゃあ」
一鬼は鍬の柄に手を置き、眉根を寄せた。
匂いの出処は、目と鼻の先――三十坪の開墾地のすぐ隣に広がる、巨大なガラス温室と頑丈なビニールハウス群だった。
村内随一の農地面積を誇る豪農、泥沼アグリ法人の敷地だ。
ギィィ……バタン!
温室の引き戸が乱暴に開き、中からふらふらとした足取りで一人の男が出てきた。
泥沼源蔵(五十歳)。かつては村一番の実直な百姓として知られていた男だ。だが今の姿は見る影もない。作業着のボタンは掛け違えられ、無精髭だらけの頬はげっそりと削げ、落ちくぼんだ両目だけが異様な熱を帯びてギラギラと輝いていた。
「へへ……へへへ……今日も可愛いなぁ、俺のハニー……。今夜はお前の一番好きな、ドンガン特製のリン酸液肥をたっぷり飲ませてやるからな……」
ブツブツと譫言を呟きながらよろめく源蔵の背後から、今度は母屋の勝手口が開いた。
現れたのは、妻の恵(四十五歳)。かつては手料理の腕前で近所からも慕われていたおかみさんだが、その顔には濃すぎる化粧が塗りたくられ、手には高級ブランドの紙袋が握られていた。
「おい、源蔵! あんたまた朝っぱらからハウスに籠もってたのかい!? 今月の設備投資枠から金貨十枚、引き出させてもらったよ! あの方……プリンス様のツルに巻く純銀の支柱を買わなきゃいけないんだからね!」
「あァ!? ふざけんなババア! あれはクイーンの温調魔導ヒーターを買い換えるための金だぞ! 手ぇ出すんじゃねぇ!」
「誰がババアだい! プリンス様はね、『恵さんの手肌は白百合のように美しい』って毎朝囁いてくれるんだよ! あんたみたいな泥臭い男と三十年も連れ添ってやっただけでもありがたく思いな!」
「なんだとコラァッ! クイーンはなぁ、『あなたのお水が宇宙で一番美味しい』って言って俺の肩をツルで揉んでくれるんだよ! お前なんぞとっくに女房でも何でもねぇわ!」
早朝の田園に響き渡る、罵声の応酬。
だが、二人は互いの胸ぐらを掴み合う寸前で、ピタリと動きを止めた。
通りかかった近所の農婦が「あら、泥沼さん、おはようございます」と会釈をした瞬間――
スッ、と。
二人の顔から怒気と狂気が完全に消え失せ、貼り付けたような営業スマイルへと切り替わった。
源蔵が恵の肩を抱き、恵が源蔵の腕に手を添える。
「オホホ、おはようございますぅ。今日も夫婦仲良く、朝の巡回ですのよ」
「ええ、ええ。うちの愚妻が朝食に腕を振るってくれましてねぇ。ハハハ……」
農婦が通り過ぎたコンマ一秒後、二人はパッと腕を振りほどき、互いに唾を吐き捨てて背を向けた。
家庭内では一切の会話を拒絶し、台所にはカチカチの生米と冷水しか置かれない。しかし「離婚すれば村の農業安定化補助金(年間数百万円)が打ち切られる」「世間体が悪い」という生々しい損得勘定だけで成立している、冷戦の極致――【仮面夫婦】の姿だった。
「……やれやれ。修羅場だな」
一鬼は手拭いで首筋を拭いながら、小さく息を吐いた。
かつて極道の世界でも、シマの利権や愛人関係のもつれで家庭をぶち壊した幹部を何人も見てきた。だが、畑の作物が原因で夫婦が狂うなど、娑婆ではお目にかかったことがない。
「あの……イチキさん、ですよね」
踵を返してハウスへ戻ろうとしていた源蔵が、ふと足を止め、おずおずと一鬼に声をかけてきた。
その瞳の奥には、狂気の隙間にわずかな正気の悲鳴が明滅していた。
「自警団のマンミア様から聞きました。あんた、草木や土の扱いが人外の域だって……。頼む、頼みがあるんだ」
「……俺に、ですかい?」
「ハウスの……奥の特等区画だ。クイーンが……あの子が最近、葉先を黄色くして苦しそうにしてるんだ。俺がどんなに水をやっても、液肥を注いでも、弱っていくばかりで……。頼む、あの子を診てやってくれ! あの子が枯れたら、俺は……俺は生きていけないんだ!」
土下座せんばかりに縋り付いてくる源蔵。
一鬼は静かにその顔を見つめ、それから腰の手甲を締め直した。
「……まぁ、隣近所の縁だ。作物の顔を見るくらいなら、減るもんじゃありやせんよ」
*
温室の二重扉を潜った瞬間、外気とは比較にならない熱気と濃密な芳香が一鬼を包み込んだ。
湿度は八十パーセントを超え、天井からは魔導ランプの妖しい桃色の光が降り注いでいる。
整然と並ぶ棚の最奥、天鵞絨の敷物が敷かれた特等席に、それは鎮座していた。
バスケットボールを一回り大きくした、巨大なメロン。
エメラルドグリーンの果皮には、純白のレース細工のような編み目模様が妖艶に明滅している。棚から伸びたしなやかなツルは、まるで人間の腕のように空中で優美にくねり、一鬼が足を踏み入れた瞬間、ぽよん、ぽよんと豊かな果肉を揺らした。
ポポロ村の人生クラッシャー果実――『クイーンメロロン』。
『あら……? 見慣れない殿方ね……♡』
直接、脳の内側に滑り込んでくるような甘ったるいテレパシー。
鼓膜を介さず、聴覚神経を直接愛撫されるような、蕩けるような女の声だった。
ツルの先端がするすると伸び、一鬼の逞しい肩へと絡みついてくる。
『たくましい腕……素敵な肩幅ね。いつも土を掘って、頑張っているのかしら? えらいわ、とっても立派よ……♡』
耳元で囁くように吐き出される、高濃度の承認フェロモン。
背後で源蔵が「あぁっ! クイーン、そいつに触っちゃダメだ! 俺を見てくれ!」と嫉妬で血走った叫びを上げている。
『頑張った貴方には、ご褒美が必要よ……。辛いことも、過去の罪も、全部忘れていいの。私のお水を……貴方が全部ちょうだい? 一緒に、甘い夢の底へ堕ちましょう……?』
ぽよん、と果肉が揺れ、果皮の編み目から一滴の琥珀色の果汁が滴り落ちる。
人間の庇護欲と性欲、孤独感を極限まで刺激し、全財産を吸い尽くして心中へと引きずり込む魔性の罠。普通の男であれば、この時点で理性が完全に融解し、「メロロン! 俺の命をお前にやる!」と叫んで抱きついているところだった。
だが。
一鬼は、身じろぎひとつしなかった。
肩に絡みついたツルを払い除けることすらせず、冷え切った漆黒の双眸で、ただ静かにメロンの「茎」と「葉」を見つめていた。
「…………」
心拍数は、毎分五十拍の完全な凪。
三十五年間、女の肌の温もりすら知らず、鉄格子の冷気と己の罪深さだけを抱いて生きてきた男だ。夜の街で色情狂のチンピラや、美人局に引っかかって身を滅ぼした極道共の末路を、嫌というほど見てきた。
甘い言葉で近づいてくる者にロクな奴はいない――それが、一鬼の血肉に刻まれた絶対の経験則だった。
『……あ、あれ? 貴方……私の声、聞こえてる……?』
クイーンメロロンのテレパシーに、わずかな動揺が混ざった。
相手の脈拍が跳ね上がらない。瞳孔が開かない。体温の上昇も、呼吸の乱れも一切ない。
まるで、大岩か古木を相手に色仕掛けをしているかのような手応えの無さ。
「おい、嬢ちゃん」
一鬼が、低く落ち着いた声で口を開いた。
「……あたいを食べるのが本望だの、一緒に堕ちようだの、くだらねぇ法螺吹いてんじゃねぇよ。そんな口先だけの甘言、娑婆の安キャバクラでも聞き飽きたぜ」
『ひ……っ!?』
一鬼はタローマンの作業袋から、手入れの行き届いた一本の剪定鋏を取り出した。
チャキッ、と刃を鳴らす。
その鋭い金属音に、クイーンメロロンのツルがビクッと跳ね上がった。
「葉先が黄色くなってんのはな、色気狂いになって余計なツルを伸ばし散らかしてるからだ。見ろ、側枝が十本以上も暴れ回って、根から吸い上げた大事な栄養が四方八方にダダ漏れじゃねぇか」
一鬼は無駄のない動きで間合いに踏み込んだ。
北辰一刀流の歩法。
怯えるメロロンが逃げる間もなく、一鬼の鋏が閃いた。
パチンッ! パチンッ! パチンッ!
空中で妖艶にくねっていた無駄なツルと、茂りすぎて日当たりを遮っていた徒長枝が、神速の刃筋によってミリ単位の正確さで次々と切り落とされていく。
痛覚はない。だが、不要な贅肉を削ぎ落とされるような鋭利な切断。
「メロンってなぁ、一本のツルに一玉、全神経を集中させて実らせるもんだ。あっちこっちに愛想を振りまいて、余分な枝を伸ばしてるから、肝心の実の芯まで水が回らねぇんだよ。……ほら、ここも摘心だ」
パチンッ!と主枝の先端が切り揃えられた。
さらに一鬼は、根元の土を手早く指先で掘り返した。
「親方、この土、液肥のやりすぎで窒素過多になって根が窒息しかけてるぜ。……おい、綺麗な真水を持て」
呆然と立ち尽くしていた源蔵が、弾かれたようにバケツの水を運んできた。
一鬼はその水を根元へ静かに注ぎ、土の隙間に指を入れて空気の通り道を作った。
――ジュワリ、と。
余分な枝葉を失い、滞っていた気脈が一本の主軸へと貫通した瞬間、クイーンメロロンの体内を純粋な大地のエキスが駆け抜けた。
『あ……っ、あぁぁぁぁぁ……っ!!』
メロロンの果肉が、これまでにないほど激しく打ち震えた。
痛烈な剪定。しかし、それは破壊ではなく、己の生命を最も美しく、最も力強く結実させるための、完璧にして至高の「慈愛の手入れ」。
一切の邪念なく、ただ一本の植物としての己を真正面から見つめ、骨を折り、整えてくれた男の手。
『な……何、この人……ッ!? 私の甘い声にも、身体の揺れにも一切惑わされないで……ただ、私を……私を綺麗に咲かせるためだけに、鋏を入れてくれた……!?』
ドクンッ!!と、メロロンの魂の炉が跳ね上がった。
人を狂わせるための精神汚染フェロモンが、急速に蒸発していく。
代わりに湧き上がってきたのは、生まれて初めて知った、一人の漢に対する純度百パーセントの【本物の恋情(ガチ惚れ)】だった。
『す、好き……ッ! 格好いい……! この人に食べてもらいたい! この人の血肉になりたい……ッ!!』
ピカァァァァッ……!!
クイーンメロロンの果皮が、神聖なまでの黄金の光を放ち始めた。
自己防衛のための精神毒は完全に中和され、果肉内部のアミノ酸と糖度が、自然の理を超えた極限の領域へと凝縮されていく。
甘美な悪臭は消え失せ、ハウスの中を満たしたのは、天上の果実のごとき清らかで芳醇なメロンの真の芳香だった。
「……お? 顔色が良くなったな」
一鬼は鋏を拭い、ぽんとメロロンの頭頂部を優しく撫でた。
クイーンメロロンは『ふにゃあぁぁ……♡』と歓喜の吐息を漏らし、残された一本のツルを愛おしそうに一鬼の手首へとすり寄せた。もう、人を誑かすような毒気は欠片も残っていなかった。
「あ……あぁ……」
背後で、源蔵がへたり込んでいた。
メロロンの放つ精神汚染が完全に消え去ったことで、男の脳を覆っていた靄が、サァッと晴れ渡ったのだ。
「俺は……俺は一体、何を……! 畑を放り出して、恵に暴言を吐いて……こんな、果物に現を抜かして……ッ!」
頭を抱えて涙を流す源蔵の元へ、ハウスの扉を開けて恵が飛び込んできた。
彼女の目の奥からも、プリンスメロロンの毒気が綺麗に抜けていた。手からブランド品の紙袋が滑り落ちる。
「あ、あんた……! 源蔵……っ!」
「恵……! すまねぇ、すまねぇ恵……っ! 俺が悪かった、俺が全部馬鹿だったんだ……っ!!」
三十年間連れ添った夫婦が、泥だらけの温室の床で抱き合い、号泣した。
冷戦の仮面は砕け散り、そこには再び、互いを労わり合う本物の夫婦の絆が蘇っていた。
一鬼は作業着の袖を下ろし、そっと足音を忍ばせて温室の扉へと向かった。
「……一件落着、だな」
背後で、クイーンメロロンがツルを一生懸命に振って『行かないでぇ〜! またお水あげに来てぇ〜♡』と熱烈なラブコールを送ってきていたが、一鬼は「大事に育ててもらいな」と背中で手を振るだけにとどめた。
温室を出ると、初夏の青空がどこまでも高く広がっていた。
開墾地へ戻り、ヒエンの鍬を手に取る。
「さぁて……うちの畑も、負けずにいい畝を立てなきゃならんな」
元極道の手によって、また一つ、ポポロ村の狂気が静かに「調伏」された朝のことだった。
しかし――村の平和を面白く思わない影が、遠くムーンキャピタルのきらびやかな街並みから、ゆっくりと忍び寄っていた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




