EP 4
『長屋の炊き出しと、飢えた人魚』
東の三十坪の荒地は、見違えるような黒土の畑へと姿を変えつつあった。
ヒエンが神火で研ぎ直してくれた鍬は、硬い赤土に吸い込まれるように刃が入り、ネギオから譲り受けた遮光シートの下では、肉椎茸の原木が心地よさそうに湿り気を帯びた風を受けている。
石を取り除き、堆肥をすき込み、畝を美しく立てる――その合間にも、日雇いの水路掘削作業はきっちりこなした。
そして迎えた、入居後初めての週末。
「……よし、今週もお勤めご苦労さん、ってところだな」
夕暮れ時。一鬼の手元には、現場監督のオークから手渡された今週分の日当――数枚の銀貨と、端数の銅貨が残っていた。
三十五年ぶりの休日の前夜。何か贅沢をする気はない。だが、せっかく炊事場のある長屋に腰を落ち着けたのだ。久しぶりに、己の手で温かい飯を腹いっぱい炊いて食おうと思い立った。
タローマートで仕入れてきたのは、夕方の見切り品コーナーに並んでいた食材だ。
少し形が不揃いな月見大根が二本、土のついた太陽芋、賢者モードに入って透き通るような甘みを放つたまんネギ、そしてシープピッグの細切れ肉と、大豆から作られた素朴な赤味噌。さらに、米麦草を二升。
これだけ買い込んでも、銀貨一枚でお釣りがくる。
「さて……腕が鈍ってなきゃいいが」
一階の共同炊事場。一鬼は黒のニッカポッカの裾をまくり、手拭いで髪を縛ると、使い込まれた包丁を手にした。
立つのは、かつて刑務所の『炊事工場(炊場)』で千人前の汁物を大釜で仕込んでいた頃の構え。
トントントントン……!
まな板の上で、小気味よいリズムが刻まれる。
月見大根はいちょう切り、太陽芋は乱切り、たまんネギは繊維に沿ってミリ単位の均一な厚みでスライスされていく。北辰一刀流の刃筋の通し方は、野菜を切る包丁さばきにも寸分の狂いなく活きていた。乱れのない厚みは、火の通りを均一にし、煮崩れを防ぐための基本だ。
大鍋に太陽芋の油を熱し、シープピッグの細切れ肉を炒める。ジュウゥッという香ばしい脂の音が立ち上り、そこへ山盛りの根菜を投入。油が全体に回ったところで、出汁を引き、蓋をしてコトコトと煮立たせる。
隣の釜では、米麦草がパチパチと音を立てて炊き上がっていた。
仕上げに、溶いた赤味噌を回し入れ、最後にネギオの工房から巻き上げた極上ネギを散らす。
――フワリ、と。
煮干しの芳醇な出汁、炒めた豚肉の甘い脂、そして熟成された味噌の暴力的なまでの良い香りが、炊事場の戸の隙間から溢れ出し、ポポロ・コーポの一階廊下を隅々まで満たしていった。
その瞬間だった。
バタンッ!!
廊下の突き当たり、102号室の扉が勢いよく開き、何かが這いずるような不気味な音が近づいてきた。
「……め、飯……。出汁の……匂い……」
現れたのは、銀髪をボサボサに乱した美青年――狼王フェンリルだった。
普段はファー付きのレザージャケットを着流し、帝都のパチンコ屋でイキり散らしている神話の神狼。だが今の彼は、顔を土気色にし、頬をゲッソリと痩けさせ、腹を「グゥゥゥゥ……」と雷鳴のように鳴らしながら、四つん這いで床を這っていた。
「おい、アンタ……頼む……何か、何か恵んでくれ……。ルナミスパーラーで……確変引けなくてよ……三日、水しか飲んでねぇんだ……」
「……あぁ? なんだ兄ちゃん、えらく景気の悪ぇツラだな」
一鬼が眉をひそめた、その刹那。
ガタガタガタッ!! ドゴォンッ!!
炊事場の外、中庭に面した引き違い窓が突如として外れ、泥まみれの小豆色ジャージを着た人影が、猛烈なヘッドスライディングで炊事場の土間へと飛び込んできた。
「た、タダ飯の匂いですわぁぁぁぁぁぁーーーッッッ!!」
飛び込んできたのは、艶やかな青銀色の長髪をボロボロのゴム紐で束ねた絶世の美少女――深海王国シーランの王女にして、極貧地下アイドルのリーザだった。
足元のすり減った健康サンダルは片方脱げ、口元からは緑色の汁(公園のオオバコを噛んでいた痕跡)が滴り、鼻の穴にはピカピカに磨かれた五円玉が二枚、ぎっちりと詰め込まれている。
「ハァッ……ハァッ……! 風に乗って、奇跡の味噌汁の香気が……! 神様、仏様、タローマート様! 路上ライブの五円玉投銭がゼロ枚で、川原のタンポポを塩水で流し込む生活はもう限界ですの! 私を、私にその茶色いスープをお恵みあそばせぇぇぇっ!!」
「うわっ、なんだこの寄生魚!? 俺が先だぞコラァッ!」
「何を言ってますの駄犬系ヒモニートが! レディファースト、そしてアイドルファーストですわ!」
土間で掴み合いの泥仕合を始める神話の狼と深海の人魚。
空腹のあまり理性が完全に蒸発し、威厳もクソもない地獄絵図が繰り広げられる。
だが、一鬼は慌てることも、怒鳴りつけることもなかった。
ただ静かに、二人の前に歩み寄ると、ゴトン、と大きな木鉢を二つ、土間の床の上に並べた。
「おい、二人とも。……みっともねぇ真似すんじゃねぇよ」
低く、ドスの利いた静かな声。
その一言に込められた絶対的な重みに、フェンリルとリーザはピタリと動きを止めた。
「腹が減ってりゃあ、誰だってロクな考えが浮かばねぇし、悪態もつきたくなる。……昔、炊き出しに並んでた浮浪の連中も、みんなそんな目をしてやがった」
一鬼は手拭いで大鍋の取っ手を持ち上げると、湯気を立てる熱々の豚汁を、二つの鉢へ並々と注ぎ分けた。
ゴロゴロとした太陽芋、厚切りの月見大根、そして豚肉の脂がキラキラとスープの表面に輝く。
さらに、握りたての巨大な塩むすびを、それぞれ二個ずつ皿に乗せてトン、と差し出した。
「食いな。食い物の恨みってなぁ、この世で一番哀しいもんだ。……真っ当に生きてぇなら、まずは腹に温けぇもんを詰め込むこった」
「…………ッ!!」
「あ……あああ……ッ!!」
二人は言葉を失い、差し出された器を両手で抱え込んだ。
フェンリルが、震える手で木匙を握り、豚汁を一口すする。
ジュワリ、と濃厚な味噌と根菜の甘み、そして豚肉の旨味が、カラカラに乾いていた胃壁に染み渡っていく。
「……う、美味ぇ……。なんだこれ、胃袋が……生き返る……。昔、太郎の親父が野営で作ってくれた……あの豚汁の味じゃねぇかよ……ッ!」
帝都で粋がっていた神狼の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
一方のリーザは、匙すら使わず、両手で塩むすびを鷲掴みにして頬張っていた。
「むぐっ……! んぐっ……! お、お米……! 本物のお米ですわぁ……! 塩が効いてて、お芋が甘くて……パンの耳じゃない、ちゃんとしたご飯の味がしますのぉぉぉ……ッ!!」
鼻の穴から五円玉をポロリと落としながら、号泣して豚汁を啜る人魚姫。
二人は無我夢中で貪り食った。おかわりを二杯、三杯と平らげ、鍋の底が見える頃には、土間に転がってパンパンに膨らんだ腹をさすりながら、至福の吐息を漏らしていた。
「……ふぅ。生き返ったぜ、オッサン」
「天国ですわ……。私、生まれて初めて、歌うこと以外で魂が救済されましたわ……」
「そりゃ重畳だ。飯を食って、泣けるうちはまだやり直せる」
一鬼は穏やかに笑い、空になった大鍋を流し台へ運んで手際よく水洗いを始めた。
その背中を見つめながら、フェンリルは頭をガシガシと掻いた。
「おい、オッサン……名前、なんて言うんだ」
「高島一鬼だ。百三号室に入った、ただの日雇い土工さ」
「一鬼、か。……恩に着るぜ。俺は狼王フェンリル。今はちょいとツキに見放されてるが……何かあったら言えよ。チンピラの首の十本や二十本、いつでも噛みちぎってやるからよ」
「チンピラを噛みちぎるのは困るが……次はパチンコで負けすぎる前に、真面目に仕事を探しな、フェンリルの兄ちゃん」
苦笑する一鬼に、フェンリルは「へっ、耳が痛ぇな」とバツの悪そうな笑みを返した。
一方、腹を満たしたリーザは、芋ジャージの裾を整えながらスッと立ち上がると、一鬼の前に進み出て、深々と膝を折った。
「一鬼様……! 私、決めましたわ! 貴方は私の、人生最初にして最大の『筆頭タニマチ(大後援者)』ですわ!」
「タニマチ……?」
「ええ! この御恩は、私が帝都のトップアイドルとして武道館を埋めた暁に、最前列のVIP席と、特製ブロマイド百枚でお返しいたしますわ! ……あ、あとこれ! 私からの感謝のシルシですの!」
リーザが無邪気な笑顔で差し出してきたのは、親指大の、七色にピカピカと妖しく輝く小石だった。
――所持者の運勢を強制的に極貧水準へと叩き落とす、呪いの怪異結晶『ふ〜ん石』である。
「綺麗なお星様ですわ! どうぞ受け取って……」
「おっと」
一鬼は手を伸ばしかけ――しかし、三十五年間の修羅場で培われた『ヤバいブツを察知する第六感』がピピピと警鐘を鳴らし、寸前で手を止めた。
「お気持ちだけ受け取っておきまさぁ。俺は昔から、光り物を持つとロクなことがねぇタチでしてね。石ころは、土の中に埋めておくのが一番スジが通ってまさぁ」
「えぇ〜、遠慮なさらないでいいのに……」
リーザが残念そうに石を引っ込めた瞬間、背後のフェンリルが「おい一鬼、ナイス判断だ……あの石を触ったら、人生が完全に終わるところだったぞ」と小声で耳打ちしてきた。
「さぁて、腹も膨れたことだし、片付けたら明日の畑仕事に備えて寝るかね」
一鬼が布巾で流し台をピカピカに拭き上げると、フェンリルとリーザは名残惜しそうに、しかし満ち足りた足取りでそれぞれの部屋へと戻っていった。
静かになった炊事場。
一鬼は窓の外、月光に照らされるポポロ村の田園を見つめながら、小さく息を吐いた。
「神様だか王女様だか知らねぇが……腹を空かせりゃ、みんな同じ人間だな」
己の手で作った温かい飯が、誰かの腹を満たし、命を繋ぐ。
かつて人を傷つけ、奪うことしか知らなかった元極道の胸に、静かで確かな温もりが灯っていた。
しかし――そんな穏やかな長屋の日常をあざ笑うかのように。
翌日、隣のビニールハウスから、村の平穏を揺るがす甘美で禍々しい絶叫が、響き渡ることになるのだった。
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