EP 2
『毎分五十拍の凪と、小さな青写真』
大浴場の湯で朝の汗を流し、部屋へと戻った一鬼は、晒を巻き直して黒のニッカポッカに足を通していた。
六畳間の真新しい畳には、埃ひとつ落ちていない。窓から差し込む朝日は柔らかく、吹き抜ける高原の風がカーテン代わりに掛けた手拭いを小さく揺らしている。
トントン。
控えめだが、どこか弾むようなノックの音が板戸を叩いた。
一鬼は地下足袋の紐を結ぶ手を止め、静かに立ち上がる。
「どなたですかい」
「あ、イチキさん! 起きてる? キャルルだよ!」
扉を開けると、そこには朝露を浴びた野花のように眩しい笑顔の少女が立っていた。
ポポロ村第四十三代村長、月兎族のキャルル(二十歳)。
艶やかな銀白色のショートボブに、透き通るようなルビー色の瞳。今日は村長の公務用なのか、少し上品な白のオーバーサイズパーカーにショートパンツ姿だ。胸元のポケットには、トレードマークである手縫いの人参柄刺繍ハンカチが覗いている。
その両手には、湯気を立てる素朴な木製の角盆が抱えられていた。
「おはよう! 新居の初日の朝だからさ、朝ごはん差し入れに持ってきたの! 村長からのウェルカムサービスってことで、遠慮しないで食べて!」
「……これはこれは、村長さん。わざわざご丁寧に恐れ入ります」
一鬼は即座に居住まいを正し、直角九十度の完璧なお辞儀を繰り出した。
盆の上には、香ばしい焼き目のついた厚切りのパンと、鮮やかな橙色のジュース。添えられた小鉢には、湯掻いた山菜と月見大根の浅漬けが美しく盛られている。
「立ち話もなんです、どうぞお上がりください。茶の一杯も出せやせんが」
「あはは、いいのいいの! お邪魔しまーす!」
キャルルは軽やかに部屋へと足を踏み入れた。
しかし、敷居を跨いだ瞬間、彼女の長い純白の兎耳がピクンと直立した。
(……うわ、何この部屋。綺麗すぎる……!)
入居一日目の男所帯といえば、荷物が散乱しているか、旅の泥が床に落ちているのが常だ。だが、この部屋にはチリひとつない。畳の目に沿って雑巾掛けがされた痕跡があり、部屋の隅の布団はまるで直方体の木材のように角を尖らせて畳まれている。壁際に立てかけられた無骨なポン刀すら、静謐な美術品のように鎮座していた。
ちゃぶ台の上に盆を置くと、キャルルは正座した一鬼の正面へとちょこんと腰を下ろした。
「ささ、冷めないうちにどうぞ! このパンね、村の米麦草に人参マンドラをすり潰して練り込んだ特製の人参パンなの! ジュースも今朝採れたての陽薬草ブレンドだよ!」
「ありがたく、頂戴いたします」
一鬼は両手を合わせ、深々と一礼してからパンを手に取った。
ちぎると、ふわっと甘い大地の香りが立ち上る。口に運べば、もっちりとした弾力とともに、人参特有の優しい甘みとバターに似たコクが広がった。
「……美味ぇな。噛むほどに味が出る」
「でしょー! ふふん、私の自信作なんだから!」
キャルルは胸を張り、嬉しそうに目を細めた。
――だが、その可憐な表情の裏で、彼女の頭頂部の兎耳は、獲物を狙う鷹のように研ぎ澄まされていた。
(……さて、ここからが本番だよ、イチキさん)
月兎族の超感覚。
極限まで鋭敏な彼女の聴覚は、対話相手の心筋の伸縮、弁の開閉音、そして血管を流れる血液の摩擦ノイズすらも正確に拾い上げる。
昨夜、重火器で武装した山賊連合五十人を、素手と峰打ちだけで壊滅させた謎の男。
外見は二十代の筋骨隆々の偉丈夫。だが、その言動や醸し出す空気は、何十年も修羅の底を這いずり回ってきた老練の剣客そのものだ。
(いくらポーカーフェイスを気取っててもね、心臓の音だけは絶対に嘘をつけないんだから……!)
年頃の娘――それも、かつてレオンハート獣人王国の「第三姫君」として数多の求婚者を狂わせてきた美貌の自分が、密室で膝を突き合わせているのだ。
男なら誰しも、色香に当てられて脈が跳ねる。緊張で息が乱れる。あるいは、昨夜の武勇伝を自慢したくて誇らしげに血圧が上がるはずなのだ。
キャルルは意識を集中し、一鬼の胸の奥から響く鼓動へと耳を澄ませた。
――トクン。
…………。
――トクン。
…………。
(……え?)
キャルルのルビー色の瞳が、驚愕に見開かれた。
遅い。
あまりにも、遅すぎる。
そして、一定すぎる。
――トクン。…………トクン。…………トクン。
拍動の間隔に、コンマ一秒の揺らぎすらない。
血流のノイズはまるで、風ひとつない春の池の底を静かに流れる伏流水のようだった。
脈拍数は、【毎分五十拍】。
美少女に朝食を差し入れられ、至近距離で見つめ合っている成人男性の数値ではない。冬眠中の熊か、あるいは深山幽谷で八十年座禅を組み続けた高僧の心音だ。
(な、何なのこの人……!? 心拍数五十ってどういうこと!? 私、一ミリも異性として意識されてない!? ていうか、人間ってこんなに心臓の動きを一定に保てるものなの……!?)
キャルルは内心で泡を吹きかけていた。
三十五年間、冷たい独居房の中で「無言・不動」の規律を強いられ、心拍の乱れが命取りとなる極道の修羅場を生き抜いてきた男の心臓だ。昨夜の死線すら平熱で乗り切った一鬼にとって、うら若い娘の手料理を食う程度で乱れるような軟弱な血肉は、とうの昔に削ぎ落とされていた。
「村長さん」
「ひゃいっ!?」
突然声をかけられ、キャルルは兎耳をピンと跳ねさせて素っ頓狂な悲鳴を上げた。
自分の心臓の方が、驚きと動揺で毎分百二十拍くらいまで爆ね上がりしている。
「あ、いや、何でもないの! な、なぁに、イチキさん?」
「ごちそうさまでした。大変結構な朝飯でございました」
一鬼は空になった器を盆の中央へ几帳面に揃え、両手を膝に置いて居住まいを正した。
その真っ直ぐで濁りのない双眸が、キャルルの目を捉える。
「折り入って、村長さんにお願いの儀がございまして」
「お、お願い……? な、何かな? 私にできることなら何でも言って! あ、でも、変なことじゃないよね……?」
ほんの少しだけ期待と警戒を滲ませるキャルルに対し、一鬼は至って真面目な顔で、懐から一枚の粗末な藁半紙を取り出した。昨夜、タローマンの鉛筆で描いたとおぼしき、拙い見取り図だ。
「村の東の境界、水路の終点あたりに、岩だらけの荒れ地が放置されておりやすね。あそこの土地を猫の額ほど……三十坪ばかりで結構ですので、お貸しいただけねぇでしょうか」
「……え? 荒れ地を? 何に使うの?」
「畑を、やりてぇんでさぁ」
一鬼は、少しだけ照れくさそうに目尻の皺を緩めた。
「俺は三十五年、日陰の身で生きてきやした。娑婆に出て、こうして温けぇ飯をいただき、土をいじって日銭を稼ぐ毎日に、これ以上の極楽はねぇと思っておりやす。……ですがね、他人の畑を開墾するだけじゃなく、いつか、自分の手で野菜を育ててみてぇんです」
無骨な指先が、紙に描かれた小さな四角形――『芋畑』『キノコ床』と書かれた拙い区画を指し示す。
「太陽芋を植えて、丹精込めて育てて、油で揚げてコロッケを作る。隣の山で肉椎茸の原木を組んで、美味ぇ出汁を引く。……自分の汗で育てたものを、お世話になった村の連中や、親方や、村長さんに食ってもらう。それが、今の俺の……たった一つの、小さな青写真なんでさぁ」
「…………」
キャルルは、言葉を失っていた。
嘘偽りのない、純度百パーセントの言霊。
耳を澄ませば、その言葉を紡ぐ間も、一鬼の心音は毎分五十拍の静寂を保っていた。
見栄も、欲も、打算もない。
天下を取ろうとか、英雄になろうとか、そんな大層な野心は欠片も持ち合わせていない。ただ、真っ当に土を耕し、美味い飯を作り、他人に分け与えたいという、愚直なまでの真っ直ぐな願い。
――トクン。
今度は、キャルルの胸の奥で、確かな熱を帯びた拍動が跳ね上がった。
(……なに、この人)
王族の権力闘争に塗れ、「利用価値」だけで自分に群がってきた男たちとは、根底から魂の構造が違っていた。
圧倒的な暴力を振るえる腕を持ちながら、それを誇示せず、ただ小さな畑で芋を育てたいと微笑む男。
(……すっごく、綺麗だ)
不意に、キャルルのルビー色の瞳の奥で、ポッと小さな火が灯った。
それは憧憬であり、敬意であり――そして、月兎族が一度抱けば二度と手放さないという、【病的なまでの独占欲】の最初の芽吹きだった。
(こんな素敵な人が……私の村にいてくれるんだ。……ううん、逃がしちゃダメだよね。こんな純粋で強い人、他の国の悪い女たちに見つかったら、絶対に利用されちゃう。私が……私がちゃんと、守ってあげなきゃ……♡)
キャルルの長い兎耳が、嬉しそうにパタパタと左右に揺れた。
「いいよ! 東の荒れ地ね! あそこ、村の共有地だから、村長権限でイチキさんに無償で貸し出しちゃう!」
「無償は困りやす。筋が通りません。地代はお支払いいたしやす」
「もう、頑固だなぁ! じゃあ、最初に採れたお芋でコロッケ作って、私に一番最初に食べさせてくれること! それが地代ね!」
「……へぇ。それなら、喜んでお引き受けいたしやす」
一鬼は深々と頭を下げた。
顔を上げた彼の表情は、まるで初めての玩具を手に入れた少年のように、わずかに輝いていた。
「よし! 契約成立ね! あ、イチキさん、何か困ったことがあったらいつでも村長室に来てね? 夜中でもいいからね? 私、いつでも起きて待ってるから♡」
「へぇ、重ね重ね、恩に着ます」
一鬼は再び完璧な九十度の一礼を返した。
その背中を見つめながら、キャルルは自分の胸ポケットの人参刺繍ハンカチをそっと撫でた。
(ふふ……イチキさんの匂い、この部屋にいっぱい満ちてる。……今度、イチキさん専用のハンカチ、私が夜なべして縫ってあげようっと……逃げられないように、ね♡)
毎分五十拍の凪を保つ鈍感な元極道と、その静寂に底なしの愛着を抱き始めたヤンデレ村長。
二人の奇妙で噛み合わない絆が結ばれた、穏やかな朝のことだった。
読んでいただきありがとうございます。
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