第二章『怪異長屋の長閑な仁義と、荒野の初収穫編』
『朝五時の点呼と、頑固竜の寸胴鍋』
カチ、と頭の中の時計が鳴った。
障子を模した窓の隙間から差し込む光は、まだ藍色に近い。小鳥の囀りすら始まっていない、午前五時ちょうど。
一鬼は静かに瞼を持ち上げた。寝返りを打つことも、欠伸を漏らすこともない。三十五年間の独居房暮らしで骨の髄まで叩き込まれた起床ルーティンが、目覚まし時計の針よりも正確に、彼の意識を覚醒させていた。
「……ふぅ」
短く息を吐き出し、敷布団の上に音もなく上半身を起こす。
まず行うのは、寝床の始末だ。
万が一にも布団の端が乱れていては、刑務官から手痛い指導が入る――そんな娑婆には存在しないはずの幻影に従い、一鬼は手際よく掛け布団を三つ折りに畳み、敷布団の上に重ねた。四方の角は定規を当てたようにキッチリと尖らせ、シワひとつ残さない。枕はその中央、寸分の狂いもない正中に置く。
続いて、部屋の掃除だ。
タローマンで買っておいた木綿の雑巾を水桶に浸し、固く絞る。
ダボついた黒のニッカポッカの膝を折って正座の姿勢を取り、六畳一間の真新しい畳の目に沿って、一直線に拭き進めていく。右から左へ、奥から手前へ。三十五年間、コンクリートの床を血が滲むほど磨き抜いてきた男の手つきには、一切の迷いも無駄な摩擦音もなかった。
「よし。点呼よし、環境よし」
ひとりごちて立ち上がり、手拭いで首筋を拭う。
時刻は五時十五分。朝の労働が始まるまでには、まだ二時間以上も間があった。
一鬼は手拭いと石鹸箱を木桶に入れ、共同大浴場と炊事場がある一階へと、静かに階段を降りていった。
*
ギィ……と木造の引き戸を開け、一階の共用通路へ出た瞬間だった。
(……ん? なんの匂いだ、こりゃあ)
鼻腔を突いたのは、生々しい獣脂の焼ける匂いと、濃厚に煮詰まった骨髄の蒸気だった。
早朝の澄んだ空気を真っ向から押し潰すような、暴力的で、どこか懐かしい中華街の路地裏めいた香り。匂いの元を辿ると、通路の突き当たりにある共同炊事場から、もうもうと白い湯気が吹き出していた。
ガララ……と戸を開けた一鬼の視界に飛び込んできたのは、異様な光景だった。
成人男性がすっぽり二人ほど入れそうな、巨大な鋼鉄の寸胴鍋。
その下では、薪やガスコンロではなく、炉から直接噴き上がるような「黄金色の火炎」がゴオオオッ!と唸りを上げ、寸胴の底を焼き焦がしていた。
そして鍋の前に仁王立ちしていたのは、白髪混じりのダンディな壮年男性――A棟101号室の住人、竜王デュークだった。
仕立ての良さそうな暗色のコートの袖を豪快にまくり上げ、口には太いポポロシガーを咥えている。その金色の竜瞳は血走り、額には青筋が浮かんでいた。
「……チッ、また灰汁が浮き上がりおったか。濁りを取り除かねば、スープの透明度と純度が損なわれる。だが、火力を絞れば骨の髄液が乳化せぬ……ええい、鬱陶しいわッ!」
ボッ!とデュークの口端から小さな火の粉が漏れ、寸胴の側面に張り付いた灰汁の泡がパチパチと焦げ付いていく。
デュークが手にした穴あきの真鍮杓子は、焦燥からか軌道がわずかに荒く、掬い取ろうとするたびにスープの表面を激しく波立たせ、逆に灰汁を鍋の底へと巻き込ませてしまっていた。
(……なるほどな。豚骨の仕込みか)
一鬼は静かに頷いた。
刑務所の中では、行状の良い模範囚だけが配属される『炊事工場(炊場)』という部署がある。千人を超える受刑者の三食を毎日寸分の狂いなく作り上げる過酷な現場。そこで巨大な釜と十数年間向き合い、汁物の灰汁取りから鍋の磨き込みまでを身体に叩き込まれた一鬼にとって、目の前の光景は「手入れの行き届いていない現場」そのものに見えた。
「親方」
一鬼は木桶を床に置き、静かに声をかけた。
デュークの肩がピクリと跳ね上がり、獰猛な黄金の瞳がギラリと一鬼を射抜く。
「……何者だ。我が寸胴の前に立ち入るなと、村の規約板に書いておかなかったか、虫ケラが」
神話級ドラゴンの放つ、山ひとつを更地にしそうな圧倒的な威圧感。並の冒険者なら膝から崩れ落ち、失禁して泡を吹くレベルの殺気だ。
しかし、一鬼の睫毛はピクリとも揺れなかった。三十五年間、凶悪な無期懲役囚たちの睨み合いと、理不尽に怒号を飛ばす刑務官の威圧を受け流し続けてきた男にとって、怒鳴り散らす大男など「よくある朝の風景」に過ぎない。
一鬼は両手を膝の横に揃え、いつもの直角九十度の会釈を返した。
「朝っぱらから野暮を言って申し訳ねぇ。百三号室に入居いたしやした、高島一鬼と申します。……親方、その灰汁、ちっと手ぇ貸しましょうかい?」
「……あァ? 貴様ごとき矮小な人間に、この至高の竜骨スープの機微が分かるとでも思うてか? 笑止。失せろ、我がブレスで消し炭になりたくなくば――」
「火力が強すぎて、対流が暴れてやす」
一鬼はデュークの恫喝を真水のように聞き流し、作業着の袖を肘まで捲り上げた。
「骨から髄を搾り出すのは結構ですが、泡が立ってる中心を強火で煽っちゃあ、せっかくの脂が焦げちまう。それと親方、杓子の入れ方が垂直すぎまさぁ。これじゃあ灰汁を沈めてるようなもんだ」
「な……なにを……ッ!?」
デュークが絶句する間に、一鬼は流れるような所作で流し台へ歩み寄り、備え付けの真鍮製の網杓子と、水を入れたボウルを手にした。
足音は一切しない。北辰一刀流の摺り足。
寸胴鍋の右脇――デュークの黄金炎が届かない絶妙な死角へスルリと滑り込むと、一鬼は腰を落とし、呼吸を整えた。
「……お借りしやす」
ヒュッ、と網杓子が水面を滑った。
それは、力任せの掬い取りではなかった。
剣の刃筋を通すのと同じだ。スープの表面張力と、煮えたぎる対流の渦の境界線をミリ単位で見極め、網の縁を斜め四十五度から滑り込ませる。
サッ……サッ……。
一切の波を立てず、スープの温度を一度たりとも下げることなく。
煮え立つ泡の表面に浮いた茶褐色の不純物だけが、まるで磁石に吸い寄せられるかのように、一鬼の網の上へと正確にすくい上げられていく。
すくった灰汁は、手元の水ボウルへチャプンと落とす。網に付着した脂を水で冷やし、常に網目をクリーンに保ちながら、流れるような連続動作で寸胴の縁を半周した。
わずか一分。
先ほどまで濁った泡で覆われていたスープの表面が、まるで鏡のように滑らかな、黄金色に輝く乳白のグラデーションへと姿を変えた。立ち上る湯気から、獣臭さがスッと消え、骨と肉の純粋な芳醇さだけが炊事場を満たしていく。
「バ……馬鹿な……ッ!?」
デュークの手から、愛用のポポロシガーがポロリと床へ落ちそうになった。慌てて手でキャッチし、目を丸くして寸胴と一鬼を交互に見つめる。
「火力を落とさず……灰汁の層だけを、分子単位で削ぎ落としたというのか……!? この我の竜炎の対流を、完璧に読み切って……!?」
「親方、これで終わりじゃありやせんよ」
一鬼は網杓子を置くと、流し台の隅にあった灰の壺と、使い古しの麻布を手に取った。
寸胴の外壁――吹きこぼれた脂と煤で真っ黒に汚れていた鋼鉄の側面へ、容赦なく灰を擦り付ける。
「道具ってなぁ、外側が汚れてると熱の回りにムラが出ます。料理人の腕は、鍋のケツを見りゃあ一発で分かるってもんでしてね」
シャッ、シャッ、シャッ!とリズミカルな擦過音が響く。
三十年間の刑務作業で培われた、金属研磨の神技。
灰に含まれる微細な粒子を研磨剤代わりに使い、手のひら全体の均一な圧力で、頑固な油煙の焦げ付きを剥ぎ取っていく。
最後に綺麗な濡れ雑巾で一気に拭き上げると――
ピカァァァッ……!!
朝の薄暗い炊事場に、鈍い銀色の輝きが満ちた。
鋼鉄の寸胴の外壁は、焦げ付きひとつなく、デュークの呆然とした顔が鏡のように鮮明に映り込むほどの『鏡面仕上げ』へと生まれ変わっていた。
「…………」
静寂。
寸胴の中で、コクコクと静かにスープが熟成していく音だけが響く。
太古より世界を見下ろし、人間を矮小な羽虫としか見做してこなかった始祖の古竜デュークが、言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
魔法ではない。闘気でもない。
ただ、道具に対する真摯な敬意と、狂気的なまでの規律によって磨き抜かれた、純度百パーセントの「職人の所作」。
「……貴様」
デュークの低く唸るような声が、炊事場の空気を震わせた。
一鬼は作業着の袖を下ろし、手拭いで指先を拭きながら、いつも通りの穏やかな顔で振り返る。
「出過ぎた真似をしちまいやして、申し訳ねぇ。……ですが、これなら火も均等に回って、いい出汁が引けるはずでさぁ」
「名を……なんと言った」
「高島一鬼と申します。百三号室の日雇い土工で」
デュークは紫煙を深く吸い込み、天井へ向けてゆっくりと吹き出した。
その双眸から、先ほどまでの刺々しい殺気は綺麗さっぱり消え去り、代わりに、かつて生涯の友――佐藤太郎と語り合った時のような、深い敬意と熱が宿っていた。
「……一鬼か。良き腕だ。我がスープの機微を、初見でこれほど理解した者は、あの男以来よ」
デュークは棚から無造作に白磁の小椀を取り出すと、柄杓で寸胴の底からスープをすくい上げ、一鬼の目の前へトン、と置いた。
立ち上る湯気は、濃厚でありながらどこまでも澄み渡り、骨髄の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「飲んでみろ。……我が魂の結晶だ」
「……ありがたく、頂戴しやす」
一鬼は居住まいを正し、両手で椀を受け取った。
一口、啜る。
――ジュワリ、と。
舌の上に落ちた瞬間、濃厚な豚骨のコクが爆発した。しかし、一切の雑味がない。油のギトギト感は消え去り、骨の芯から抽出されたコラーゲンと旨味のアミノ酸が、喉を滑るように胃の腑へと染み渡っていく。
冷えた身体の隅々に、カッと熱い活力が巡るのが分かった。
「……美味ぇな」
一鬼の口から、飾り気のない本音が漏れた。
コンビニの肉まんを食った時と同じ、魂が震えるような「本物のメシ」の味。
「骨の髄まで、綺麗に仕事がされてやがる。親方の頑固な生き様が、そのまま溶け込んでるような、いい味だ」
「……フン。当たり前だ。我が手ずから炊き上げた至高の一杯だからな」
デュークは不敵に口元を歪めたが、その金色の瞳は誇らしげに細められていた。
神話の古竜と、元無期懲役の極道。
言葉はなくとも、一杯のスープと磨かれた寸胴を通じて、二人の男の間に確固たる「職人の盃」が交わされた瞬間だった。
「おい、一鬼」
炊事場を出ようとする一鬼の背中に、デュークが声をかけた。
「我が屋台『竜の髭』は、深夜の街道沿いで不定期に開く。……人手が足りぬ時は、貴様のその腕、また借りるぞ」
「へぇ。日当の代わりに、その美味ぇスープを一杯飲ませていただけるなら、いつでも声をかけておくんなせぇ」
一鬼は振り返り、完璧な九十度の一礼を返すと、木桶を抱えて大浴場へと向かっていった。
その背中を見送りながら、デュークは再び愛煙のポポロシガーを燻らせ、ピカピカに磨かれた自らの寸胴を愛おしそうに撫でるのだった。
――午前六時。
ポポロ・コーポの朝は、まだ始まったばかりである。
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