第9話 禁足の言い伝え《ちょうろうのはなし》
朝食のあと、ヨゾラが髪を編み始めた。
いつもの、ゆるい一本編み。窓辺の椅子で、手探りで束ねていく。見慣れた仕草のはずなのに、今日は妙に目で追ってしまうのは、たぶん、明け方のことがあるからだ。
目が覚めたとき、重なっていた手。彼女が起きる気配で、僕はとっさに寝たふりをした。ヨゾラは静かに手を引いて、何ごともなかったように朝食を作った。僕も何ごともなかったように食べた。無言の協定である。触れたら負け、みたいな空気が、朝の食卓に確かにあった。
だから、というわけでもないけれど。
「……編むの、代わろうか」
気がついたら、言っていた。ヨゾラの手が止まる。振り向いた藍色の目が、少し丸い。
「できるの?」
「で、できます。むしろ得意です」
椅子の後ろに回って、銀色の髪を手に取った。指の間を、絹みたいに流れる。傷んだところのない、綺麗な髪だった。毛先を揃えて、三つに分けて、編み込んでいく。手は、覚えていた。
「……上手」
「そうでしょうとも」
「どこで覚えたの」
手が、一瞬だけ止まった。……白状するしかない。この技術の出どころは、一つしかないのだ。
「…………ノートに。髪型の研究が。三ページほど」
「あの本、すごいね」
「褒めないで。役に立ってしまうのが、あの本の一番怖いところなんだ」
戦闘用の編み込み、儀式の夜の解き髪、月蝕の日の三つ編み。用途別に描き分けた過去の僕の画力が、いま、異世界で女子力に化けている。何が業って、これが業だ。
編み上がった髪に、ヨゾラは指先で触れて、鏡代わりの水盆を覗き込んだ。それから、こちらを見ずに言った。
「明日も、お願い」
「……はい」
日課が、一つ増えた。悪くない増え方だった。
支度をして、二人で村へ出た。今日の目的は、延び延びになっていた例の相談だ。一昨日、魔眼で視たあの赤黒い扇のことを、村でいちばん物知りだという長老に話す。二日越しになってしまった話題だけれど、あの光景は、寝ている間も頭から消えなかった。
道すがら、井戸端のおばさんに「もういいのかい!」と背中を叩かれ、子どもたちには「かいがんせよ!」と挨拶をされた。挨拶として定着しつつある。誰か止めてほしい。僕が始めたことだけど。
長老の家は、村の真ん中の、いちばん古い家だった。
囲炉裏の向こうに、小柄なおばあさんが座っていた。腰は曲がっているのに、目だけは若い鳥みたいに動く。それが長老様だった。
「ヨゾラと——噂の魔法使い様かの」
「る、ルナです。様はなしで」
「ほっほ。面白い術を使うそうじゃの。子どもらが真似しておったわ」
この村の情報網に、僕の黒歴史はもう完全に流通している。頭を抱えたくなるのを堪えて、僕は本題に入った。森で視たもの。獣の通り道。それが全部、奥の一点から扇形に伸びていたこと。
口で説明するより早いと思って、僕は囲炉裏の灰に、火箸で図を描いた。村の位置、森の線、放射状の筋。描きながら、我ながら線に迷いがないなと思う。設定画三百枚の画力は、こういうときにも化ける。
長老は、灰の図を長いこと見ていた。
それから、ぽつりと言った。
「——祠じゃな」
「祠?」
「森の奥に、古い祠がある。この扇の、要のあたりじゃ」
火箸の先が、放射状の線の中心を、こつんと突いた。
「昔からの約束での。村の者は近づかん。祠には番人がおって、代々、守りをしておった。……番人がおった頃は、獣どもも大人しいもんじゃった」
「番人って、何を守って——」
「さての」
長老は、僕の質問を、灰をならすみたいに軽く流した。
「祠が何を封じておるのか、知っておったのは番人だけじゃ。わしらはただ、近づかんという約束を守るだけよ。約束の中身を知らんでも、約束は守れるでの」
封じて、おるのか。
その言い方に、うなじのあたりがひやりとした。祠は、祀るものではなく、閉じ込めるものらしい。そして番人は絶えて、獣は増えて、扇の要はその祠で。
おった、と長老は言った。過去の形で。
「番人は、もう?」
「絶えた。——絶えて、しばらく経つ」
答えながら、長老の視線が、すっと横に動いた。一瞬だけ。僕の隣の、ヨゾラに。
ヨゾラは、囲炉裏の火を見たまま、動かなかった。ただ、膝の上の手が、少しだけ固く握られたのを、僕は見てしまった。
聞くな、と直感が言った。今は、聞くな。
「祠に近づくでない」
長老の声が、僕を図から引き戻した。
「じゃが、放ってもおけぬ。獣がこのまま増えれば、冬を越せん。……猟師が戻ったら、森の様子を見させよう。おまえさんの視た筋のこと、詳しく教えてやってくれ」
猟師は市のあと、山向こうの罠場を見て回るのが常で、戻りはまだ数日先らしい。市の日に「夕方には戻る」と聞いていたのは、村までの話ではなく、山小屋までの話だったようだ。
「はい。あの、僕も——」
行きます、と言いかけた僕を、長老は片手で制した。若い鳥みたいな目が、じっと僕を見る。値踏みとも違う、もっと深いところを覗くような見方だった。
「……おまえさんの言葉は、遠い匂いがするの」
「え」
「なんでもない。年寄りの鼻は、余計なものまで嗅ぐでな」
ほっほ、と長老は笑って、それきり流してしまった。遠い匂い。心臓に悪いことを言うおばあさんだ。
帰り道のことも、決まった。猟師が戻るまでは森に入らない。村の見回りは大人が交代で立つ。僕は、獣が出たときの「切り札」として控える。切り札。控えの魔法使い。字面だけなら格好いいが、実態は詠唱に一分かかる砲台である。運用には課題しかない。
それでも、少しだけ、ほっとしてもいた。一人で抱える話ではなくなった。灰に描いた扇は、もう村の大人たちの問題で、僕の見間違いかもしれない不安ごと、引き受けてもらえた。
帰り際、戸口まで送りに出た長老が、ふと、僕たちの背中に声を投げた。
「ルナや」
「は、はい」
振り向くと、長老は笑っていなかった。囲炉裏の火を背にして、皺の奥の目が、まっすぐこちらを見ていた。
「気をつけや。——森で名を呼ばれても、振り向くでないぞ」
「……名を、呼ばれても?」
「昔からの言い伝えじゃ。祠の森は、人の名を覚える。呼ばれて振り向いた者は、戻ってこん——というの。ほっほ。年寄りの脅かしよ。忘れなされ」
長老は笑い方を取り戻して、戸を閉めた。
忘れなされ、と言われた言葉ほど、忘れられないものはない。
帰り道、隣を歩くヨゾラの編んだ髪が、午後の光で銀色に揺れていた。名を呼ばれても、振り向くな。うなじのひやりが、まだ消えない。だって、僕には——呼ばれたら世界が変わると信じていた名前が、一つ、あるのだ。
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