第8話 治癒の蒼光《かんびょう》
天井が、ゆっくり回っていた。
朝。目を覚ました瞬間に、わかった。関節が重い。喉の奥がひりつく。額の裏側で、鈍い熱が脈を打っている。
昨日の雨だ。小雨だからと高を括って、半日歩き回った。異世界に来て八日目、僕の体は、律儀に風邪をひいた。
……大丈夫。起きられる。起きて、何でもない顔をすれば。居候の上に病人までやったら、いよいよ立つ瀬がない。それに今日は、森の奥の話を長老とやらにしに行く約束が——
立ち上がって、二歩目で、視界が斜めになった。
倒れる、と思った体を、横から伸びた腕が受け止めた。
「……何してるの」
いつの間にそこにいたのか、ヨゾラだった。僕を支えたまま、空いた手を僕の額に当てる。ひんやりした掌の感触に、思わず目を閉じそうになった。
「熱い。寝てて」
「だ、大丈夫。これくらい——」
「寝てて」
二度目は、反論を予定に入れていない言い方だった。僕は毛布に戻された。抵抗は、三秒で鎮圧された。
それからのヨゾラは、手際がよかった。
水を絞った布が額に載る。台所からは、とんとん、と何かを刻む音。戻ってきたときには、湯気の立つ粥の椀と、青くさい匂いの湯呑みを盆に載せていた。
「薬草。苦い。飲んで」
「説明が正直すぎる」
本当に苦かった。顔をしかめる僕を見て、ヨゾラはわずかに口の端を上げ、空いた椀を引き取っていく。布を替える。窓を少し開けて、また閉める。全部の動きに、迷いがなかった。
「あの、先に言っておくけど」
毛布の縁を握って、僕は宣言した。
「僕が寝てる間に変なことを言っても、全部、熱のせいなので。聞かなかったことに」
「変なことって?」
「それを言ったら意味がないでしょ!?」
寝言が怖いのだ。ただでさえ起きている間も口が黒歴史を漏らすのに、意識の見張りがいなくなったら、何を詠唱しだすかわからない。最悪、寝たまま発動する。家が燃える。
「わかった。聞かなかったことにする」
ヨゾラは頷いて、それから、少しだけ首を傾げた。
「でも、聞いてはいる」
「そこは寝ててほしい!!」
叫んだら咳が出た。安静にしよう。
「……慣れてるんだね。看病」
何気なく言った一言だった。布を直す手が、一瞬だけ、止まった。
「——昔。ずっと、してたから」
それだけだった。誰を、とは言わなかった。僕も、聞かなかった。「いまは、一人だから」。最初の日の夕方の声が、また耳の奥で鳴る。この家には、たぶん、看病される側の人が、昔いたのだ。
「寝て。治すのも、仕事」
ヨゾラはそう言って、僕の目の上まで、そっと毛布を引き上げた。
昼過ぎに、戸を叩く音で一度目が覚めた。
井戸端のおばさんの声だった。山羊の件の礼と見舞いに、林檎を持ってきてくれたらしい。戸口の向こうで、聞き覚えのある小さい声も二つ、「ルナさまは!?」「かいがんせよ、って言えば治る?」と騒いでいる。治りません。それは治す系の詠唱ではない。
「寝てるから」
ヨゾラの声は短く、そして一歩も通さない声だった。おばさんが何か言い、子どもたちが渋々遠ざかっていく足音がして、戸が閉まる。盆に、赤い林檎が三つ載って戻ってきた。
「……ありがとう。番犬みたいだった」
「犬?」
「なんでもないです」
熱のせいか、眠りは浅くて、変な夢ばかり見た。
紅蓮の獣が枕元で丸くなっている夢。魔眼で見た赤黒い扇が、ゆっくりこちらへ開いてくる夢。教室の夢も見た。元の世界の、あの教室。誰も僕を見ていない、あの、静かで平和で、少しだけ寒い場所。
熱を出したとき、あっちでは、どうしていたっけ。
……思い出した。一人だった。親は仕事で、僕は鍵っ子で、枕元に水と薬を置いて、天井を見ていた。寂しいと思わないための設定なら、いくらでも持っていた。我は孤高の魔弾の射手。群れず、頼らず、ただ独り——
額の布が、替えられた。
冷たさが心地よくて、夢と現実の境目で、僕は目を薄く開けた。夕方らしい。窓の光が橙色だ。枕元の椅子に、ヨゾラが座っている。膝の上に繕いものを載せて、針を動かしながら、時々、僕を見る。
ずっと、いてくれたの。
何か言おうとしたけれど、言葉になる前に、熱がまた僕を沈めた。沈みながら、口が勝手に動くのがわかった。まずい、と思う理性は、もう遠かった。
「……だめ……」
「ルナ?」
「その、名前は……呼んじゃ、だめ……」
自分の声が、他人のもののように聞こえた。布越しに、ヨゾラの気配が近づく。
「……名前?」
「ほんとうの……は、封印、したから……呼んだら……」
呼んだら——どうなるんだったか。世界が変わるんだったか。変わってしまえばいいと思って作った設定だったか。熱の底で、理屈がほどけていく。ただ、駄目だということだけを、僕は繰り返したらしい。
しばらく、静かだった。
それから、額の布がもう一度替えられて、聞こえた。
「うん。呼ばない」
静かな、約束の声だった。
「——あなたが、いいって言うまで」
その言葉を最後に、僕は今度こそ、深いところへ沈んだ。夢は、もう見なかった。
次に目を覚ましたとき、窓の外は白み始めていた。
熱は、だいぶ引いていた。頭の芯が軽い。喉の痛みも遠い。薬草、苦いだけのことはある。
そして、右手が、温かかった。
見ると、毛布の上で、僕の手に、ヨゾラの手が重なっていた。彼女は椅子に座ったまま、こちらに傾いて、眠っていた。繕いものは膝から床に滑り落ちて、ほどいた銀色の髪が、肩から流れている。
うわ言で、僕は何をどこまで言ったのか。覚えているのは、呼ばない、という声だけだ。あなたがいいって言うまで、という続きだけだ。
……手を、引き抜けなかった。
引き抜かない言い訳を、僕は熱のせいにした。まだ病人なので。安静が第一なので。動くと悪化するので。起こしたら悪いので。よく寝ているので。……言い訳が五つを超えたあたりで、認めることにした。単に、離したくないだけだ。
昔の僕は、頼らないことを強さの設定にしていた。孤高、とノートに書いた。でも本物の孤高は、熱の夜に水を替えてくれる手のことを、知らないから書ける言葉だったのだと思う。
窓の白が、少しずつ金色に変わっていく。繋いだままの手の上に、朝の光が、静かに落ちていた。
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