第7話 魔眼、開眼《やぎさがし》
「魔法使い様! いませんか、魔法使い様!」
朝から戸を叩かれた。
開けると、畑で会った男の人が立っていた。困り顔で、後ろには近所の子どもが二人。嫌な予感しかしない呼び名を、僕は震え声で訂正した。
「る、ルナでいいです……」
「ルナ様、山羊が逃げたんです!」
様も余計です、と言う間もなく、話は進んだ。夜のうちに柵が壊れ、山羊が一頭いなくなった。仔を産む予定の大事な一頭で、森に入られたら、昨日みたいな獣に何をされるか。捜すにも人手が足りない。猟師は隣村の市に出ていて、夕方まで戻らない。
つまり、頼れるのが僕しかいない、ということだった。昨日までは「旅の人」だったのに、一晩で「頼れる人」になっている。広場の一件の威力、恐るべしである。
小雨の降る中、僕は捜索に駆り出された。
最初は普通に捜した。足跡を探し、名前を呼び——名前は「ミルテ」というらしい。ミルテ、と森に向かって呼ぶたび、後ろから男の人が「もっと大きく!」と応援してくる。魔法使い様の実力とやらを信じきった声だった。実力の中身が黒歴史だとは、夢にも思っていない声である。
三十分で心が折れた。素人に山は広すぎる。雨で匂いも音も流れる。濡れた前髪が額に張りつく。
そして僕は、認めたくない結論に行き着いた。
——あるのだ。こういうときのための設定が。
『禁忌の書』、確か十七ページ目。右の瞳に封印されし、万象の真実を見抜く深淵の魔眼。あの頃、前髪で右目を隠していたのは、この設定のためだった。うっかり開眼すると世界が滅ぶから、隠す。滅ばなかった。一度も。
でも、この世界でなら。
振り返る。男の人と子どもたちが、雨よけの木の下からこちらを見ている。観客つき。よりによって。
「……見ないでもらえたり、は」
「?」
「なんでもないです」
通じなかった。腹を括って、右目を掌で覆う。あの頃、鏡の前で数えきれないほどやった構え。指の間から、雨の森がにじんで見えた。
「開眼せよ、我が右の瞳に封じられし深淵——」
子どもたちが、ざわっとした。やめて。聞かないで。でも止めない。止めたら不発だ。
「万象の虚飾を穿ち、真実を暴け——《魔眼・アレテイア》!!」
掌を、開いた。
世界の色が、変わった。
雨の灰色の上に、淡い光の筋が幾つも浮かんでいる。人の通った跡は金色に、獣のそれは赤黒く。地面に残った魔力の残滓が、視える。設定どおりに。設定どおりなのが、いっそ怖い。
足元がまず光った。僕自身の歩いてきた跡が、金の点線で森の入り口まで続いている。男の人と子どもたちの分も。そして、その線に交差するように——白い小さな足跡の列が、茂みの奥へ点々と続いていた。蹄の形。まだ新しい。
「こっち! 足跡……が、その、視えるので!」
説明になっていない説明を叫んで、僕は白い点線を追った。後ろで男の人が「視える!? 足跡が!?」と沸いている。沸かないでほしい。
「——いた!」
山羊は、沢の手前の藪に角を絡めて動けなくなっていた。僕を見て、めえ、と不服そうに鳴く。おまえのせいで僕は今日、人前で二つ目の黒歴史を解禁したんだぞ。めえ、ともう一度鳴かれた。反省の色はなかった。
男の人が歓声を上げ、慎重に角を藪から外す。腹の大きな体は、傷ひとつなかった。子どもたちが跳ねた。よかった。本当によかった。これで帰れる。
帰れる、のだが。
「ルナ様! 今の、目! 目がすごい!」
「なんて言ったの!? かいがんせよ、のあと!」
「ぼくもやる! かいがんせよ!!」
子どもが右目を覆って叫び始めた。やめなさい。それは滅びの構えです。何も滅びないけど。もう一人も真似をして、二人で「かいがんせよ!」「ばんしょうのきょしょくを!」と言い合っている。発音が良い。子どもは吸収が早い。この村の親御さんたち、すみません。おたくのお子さんに黒歴史がうつりました。
魔眼の何がどうすごいのか、僕は男の人からも説明を求められ、しどろもどろで「昔からの、流派なので」と答えた。流派。便利な言葉を覚えてしまった。男の人は深く頷いて「やっぱり都の方は違うなあ」と勝手に納得してくれた。都、行ったことないんですけど。
問題は、その後だった。
視界が、戻らない。
……そうだった。この設定、「常時発動を封印で抑えている」やつだった。解くのは開眼の儀。なら戻すのは——再封印の儀。オンよりオフの詠唱の方が長いのが、あの頃の僕のこだわりだった。過去の僕、なんでそんなところだけ凝った。
かくして僕は、山羊と観客の前で、二度目の叫びを上げた。
「還れ、深淵。永劫の静寂へ——我が瞳に、再びの枷を!!」
視界から、光の筋がすうっと引いていく。世界がただの雨の森に戻る。子どもたちが「さいふういんのぎ!」と大喜びで復唱した。だから、覚えないでいいんだって。
解くより、しまう方が恥ずかしいのは、なぜなんだろうな。
帰り道、雨は上がりかけていた。
ただ、僕は少し黙っていた。魔眼の視界で、山羊の足跡の他に、視えてしまったものがある。
赤黒い獣の通り道が、何本も。それが全部、森の奥の同じ方向から、村の側へ伸びていた。放射状に。まるで、奥の一点から扇を開いたみたいに。古い跡は色が薄れて、新しい跡ほど濃く光る。その濃い線が、数えるのが嫌になるくらい、あった。
増えている、というのは、本当だ。しかも、出どころがある。畑の男の人たちの「去年までとは違う」という声が、あの赤黒い扇の形と重なって、胸の奥がざらりとした。
家に着くと、ヨゾラが薪を抱えて出てきたところだった。今日は朝から機織りの手伝いで、村の反対側にいたはずだ。それでも、僕が山羊捜しに出たことは、もう耳に入っているらしかった。村の噂は雨より速い。
ずぶ濡れの僕を見て、藍色の目がすっと細くなる。
「森の奥のこと、あとで話すね。それと長老……みたいな人って、この村にいる?」
「いる。——けど、その前に」
ヨゾラは薪を置いて、僕の前髪から落ちる雫を見た。
「くしゅんっ」
間が悪いにもほどがあるくしゃみが出た。ヨゾラの眉が、きゅっと寄る。
「お湯。着替え。話は、それから」
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