第6話 途中で止めない
悲鳴は、井戸端から聞こえた。
あれから僕は何度か村に通って、パン屋の端切れをもらう程度には顔を覚えられていた。今日はヨゾラに頼まれた買い出しの帰りで、籠には芋と、塩の包み。
その籠を、僕は取り落とした。
広場の入り口に、獣がいた。
犬より一回り大きい、灰色の毛並み。赤い目。あの日、森で僕を転がした奴と、同じ種類だ。それが、真っ昼間の村の中にいる。
「下がれ、下がれ!」
男の人が鍬を構えて叫ぶ。井戸端では、おばさんが腰を抜かした女の子を後ろに庇っている。誰かが「点け」と唱えて火を出したが、拳ほどの火の玉は、獣の毛皮に弾かれて散った。
——ああ、そうか。
変に冷静な頭で、理解する。一言の魔法は、家事の魔法だ。桶を昇らせ、竈に火を入れる。日々を回すための言葉。あの毛皮を抜くようには、できていない。
獣が、女の子とおばさんの方を向いた。
考えるより先に、足が出ていた。
「こっち!! こっちだ、毛玉!!」
我ながらひどい挑発だったが、効いた。赤い目が、ぐるりと僕を捉える。しまった、と思う自分と、これでいい、と思う自分がいた。あの日と同じだ。あの日と同じ——なら、やることも同じだ。
ただし今回は、途中で止めない。
息を吸う。右手の包帯に、左手を添える。
広場の真ん中で。全員が、見ている前で。
「く……くくっ」
笑い声から入る必要は、たぶんない。ないのだが、入れないと調子が出ないのだから仕方ない。誰かが「ルナちゃん!?」と叫んだ。おばさんの声だ。逃げろと言っている。逃げない。
「我が右腕に眠りし《紅蓮の獣》よ——」
獣が地を蹴った。速い。でも、知っている速さだ。僕は横っ飛びに転がって、詠唱を続ける。土の味がした。構うものか。
「千年の封を解き——」
「ルナちゃん、何やってるんだい! 早く——」
「話しかけないで!! 忘れるから!!」
人生でいちばん切実な叫びだった。獣が振り向く。二撃目が来る。牙が陽の光を弾くのが、妙にゆっくり見えた。
怖い。恥ずかしい。どっちも本物だ。でも、あの子とおばさんの方に行かせるよりは、ずっとましだ。
だから僕は、広場の真ん中で、腹の底から言い切った。
「いまこそ顕現せよ——!!」
世界が、赤くなった。
掌から吹き出した炎が、獣のかたちを取って咆哮する。飛びかかってきた灰色の体を、真正面から呑み込んで——轟音。土埃と焦げた匂いが広場を覆って、それから、静かになった。
獣は、広場の端まで吹き飛んで、伸びていた。ぴくりと痙攣して、起き上がらない。生きてはいる、と思う。たぶん。
静寂。
……あ。
熱が引くのと入れ替わりに、記憶が戻ってくる。今、僕は、何を、誰の前で。
くくっ、と笑った。包帯に手を添えた。毛玉と叫び、土を転がり、千年の封がどうとか、村じゅうに響く声で。
消えたい。今すぐこの世界からも消えたい。
恐る恐る顔を上げると、村の人たちが、ぽかんとこちらを見ていた。最初に動いたのは、おばさんだった。大股で歩いてきて、僕の両肩を掴んで、上下に揺さぶった。
「あんた、無茶をするんじゃないよ! ……ありがとうね! ありがとうね!!」
「え、あの、はい」
「見たかい今の! ルナちゃんの魔法!」
堰を切ったように、広場が沸いた。すごい、あんな炎は見たことがない、旅の魔法使い様だったのか。質問が四方から飛んでくる。あの長い言葉はなんだい。どこの流派なんだ。千年の封って、なあに?
流派。封。やめてくれ。全部、中学二年の僕に聞いてくれ。
もみくちゃにされながら、ふと、人垣の向こうに目が行った。
広場の入り口に、ヨゾラが立っていた。悲鳴を聞いて走ってきたのだろう、肩で息をして、ほどけかけた編み髪が頬に張りついている。騒ぎの外で、じっとこちらを見ている。心配、が半分。それから、口元に、ほんの少しだけ——僕にしかわからないくらいの、得意げな笑み。
ほら、と言われた気がした。
あなたの言葉は、強いんだって。
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