第5話 世を忍ぶ仮の姿《たびのひと》
借りものの服に、袖を通す。
生成りのブラウスに、紺のスカート。ヨゾラの服だ。制服のままだと目立ちすぎるから、と朝一番に渡された。丈が少し余るのは、身長の差である。ちょっと悔しい。
「うん」
着替えた僕を上から下まで見て、ヨゾラは一つ頷いた。
「それでいい。制服……っていうの? あれは、しまっておいて」
「変じゃない?」
「変じゃない。……似合う」
さらっと言って、彼女はもう戸口に向かっている。こっちは着慣れない服の襟を直すふりをして、顔が戻るのを待つ羽目になった。この子は、自分の言葉の威力を知らない。
村までは、歩いてすぐだった。
朝の村は、音でできていた。鶏の声。井戸の滑車。誰かが薪を割る音。そのあちこちに、短い言葉が混ざる。
「昇れ」
井戸端のおばさんが言うと、桶がするすると水面から上がってくる。パン焼き竈の前では、店主らしき男の人が「点け」と一言。奥で火が起きる音がした。
……本当に、みんな一言なんだ。
魔法が、この村では家事だった。誰も詠唱に構えないし、誰も見物しない。息をするみたいに唱えて、次の仕事に移る。あの朝の野原で岩を熔かした僕の長口上を思うと、遠い目になる。同じ「魔法」という言葉で括っていいのか、あれは。
「ヨゾラちゃんじゃないか」
井戸端のおばさんが、こちらに気づいて手を振った。恰幅のいい、声の大きな人だ。
「おや、そちらは?」
「旅の人。ルナ。しばらく、うちに」
ヨゾラの紹介は三語で終わった。簡潔にもほどがある。慌てて頭を下げると、おばさんは目を丸くして、それからなぜか、嬉しそうに笑った。
「そうかいそうかい。ルナちゃんね。まあ、ゆっくりしていきな」
ルナちゃん。呼ばれるたび、胸の奥で小さな棘がちくりとやる。いい名前だと思われている。出典を知っているのは、この世界で僕だけだ。……いや、正確には、僕と、あのノートだけ。
それから僕は、村を一周ぶん、紹介されて回った。
といっても、ヨゾラの説明はどこでも三語前後で、あとはだいたい相手がしゃべった。パン屋では焼きたての端切れをもらい、畑では鍬を止めた男の人たちに「森には一人で入りなさんな」と念を押された。最近、獣が増えているらしい。数も、里に近づく距離も、去年までとは違うのだと、男の人たちは少し声を落とした。
……あの牙を思い出して、僕は黙って何度も頷いた。一人では絶対に入らない。入るときは長口上を最後まで言わせてくれる獣だけにしてほしい。だけど、そんな獣はいなかった
帰り際、井戸端でまたおばさんに捕まった。捕まったのは僕だけで、ヨゾラは先に水汲みへ行っている。
「ルナちゃん」
おばさんは、井戸の向こうの銀色の後ろ姿を目で示して、少し声を柔らかくした。
「あの子が人を連れて歩くなんてねえ。初めて見たよ」
「……そう、なんですか」
「ずっと一人で、なんでも一人で、やってきた子だから」
それ以上は言わなかった。言わない、と決めている言い方だった。だから僕も、聞かなかった。ただ、最初の日の夕方に聞いた「いまは、一人だから」という声が、耳の奥でもう一度鳴った。
帰り道は、二人とも、あまりしゃべらなかった。
夕方の光が、道の轍を長く伸ばしている。前を歩くヨゾラの髪が、その光を受けて、ほとんど白く見えた。桶の水が、歩幅に合わせてちゃぷちゃぷ鳴る。
「……あのさ」
気がついたら、声が出ていた。
「今日、ありがとね。村、案内してくれて」
ヨゾラは足を止めなかった。止めなかったけれど、少しだけ、歩くのが遅くなった。
「別に。買い出しのついで」
「うん」
「……ついで、だけど」
桶を持ち直す音がした。それから、前を向いたままの声が、夕方の道に小さく落ちた。
「誰かを案内するの、初めてだった。——また、連れてく」
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