第10話 蜜約《おかしづくり》
「——焼いてみようかな」
朝の台所で、僕はつぶやいた。
視線の先には、林檎が三つ。井戸端のおばさんが見舞いにくれた、あの赤い実だ。熱はもうすっかり引いたのに、律儀な赤い顔で、台所の隅からこちらを見ている。このまま齧るのも美味しいだろうけど、もらいものをただ食べて終わるのは、なんだか居候の完成形という感じがする。
お返しが、したかった。
「焼くって、林檎を?」
朝の髪編みを終えたばかりのヨゾラが、編み目を指で確かめながら台所を覗いた。今日の編み込みは我ながら会心の出来である。
「うん。お菓子に。……できると思う、たぶん」
実を言うと、覚えがあるのだ。元の世界で、一人の休日に、台所を借り切って焼いていた。誰に出すでもないマフィンとか、クッキーとか。焼いている間は余計なことを考えなくていいから、あれは僕の、詠唱以外の避難所だった。
問題は、この世界の台所である。
オーブンは、ない。当然ない。あるのは竈と、鍋と、蓋。粉は麦の粉があった。甘みは、砂糖の壺——はさすがになくて、代わりに、とろりと琥珀色の蜂蜜の壺があった。山羊の乳から作ったというバターも、少し。
「……いける」
鍵っ子歴十年の勘が言った。蓋つきの鍋を竈に置けば、オーブンの代わりになる。林檎は蜂蜜で煮て、粉とバターの生地を上にかぶせて、蒸し焼き。名前をつけるなら、林檎の包み焼き、あたりだろうか。
道具を並べていると、背中に強い視線を感じた。振り返ると、ヨゾラが台所の入り口に立って、じっとこちらを見ていた。
「……何?」
「お菓子って、あの、甘いやつ?」
「甘いやつです」
「手伝う」
ヨゾラが袖をまくった。返事より速い動きだった。そして、これが大発見だったのだけれど——彼女の魔法は、お菓子作りと相性が最高だった。
「灯れ」
竈の火が、ぽ、と点く。
「弱く」
火が、すっと小さくなる。
「……その魔法、製菓向きすぎない?」
「せいか?」
「お菓子作りのこと。火加減が一番難しいのに、声だけで調整できるの、反則だよ」
「ふうん」
ヨゾラは表情を変えなかったけれど、そのあと竈の前から動かなくなった。任命した覚えはないが、火加減大臣の誕生である。
僕は僕で、林檎の皮を剥き、芯を抜き、薄く切って鍋で蜂蜜と煮た。台所に、甘い湯気が立ちのぼる。粉とバターを指ですり合わせて、そぼろ状の生地を作る。手が、こっちもちゃんと覚えていた。詠唱と同じだ。体に染みついたものは、世界が変わっても抜けない。染みついたものの品位に、差がありすぎるだけで。
生地を鍋にかぶせながら、ふと思う。こういう手際を、僕は誰にも見せたことがなかった。学校では詠唱がばれないように無口で通して、家では一人で焼いて一人で食べて。器用なところなんて、隠す理由もないのに、癖で全部隠していた。
この世界に来てから、僕は隠しごとを一つずつ剥がされている。詠唱、魔眼、髪結い、それから今日、お菓子。剥がしているのは、だいたい隣の火加減大臣である。
一回目は、少し焦がした。
蓋を開けた瞬間の、香ばしさを三歩通り越した匂い。火加減大臣は職務を全うしていたので、原因は僕が生地を厚くしすぎたせいだ。それでも端のほうは無事で、僕たちは味見と称して、焦げていないところを匙でつついた。
「焦げたところも、少しなら香ばしいから」
「ん」
同じ鍋を、匙が二本、行き来する。ヨゾラは一口すくって、止まった。
「……甘い」
ヨゾラの目が、まん丸になった。
藍色の目が、まん丸になるのは岩を熔かしたとき以来だ。……いや、あのときより、開いている気がした。規格外の魔法より、焼いた林檎。この子の物差しは、たまによくわからない。
彼女は二口目を、一口目より慎重に、大事そうに食べた。それから、ぽつりと言った。
「甘いの、いつぶりだろ」
この村で、蜂蜜は薬に近い扱いらしい。お菓子なんて、年に一度のお祭りにあるかないか。しかもヨゾラは、そのお祭りにも「あまり行かなかった」そうだ。理由は聞かなかった。聞かなくても、井戸端で聞いた「ずっと一人で」の声が、勝手に埋めてしまった。
それを聞いて、僕は二回目の生地を、少しだけ薄く、丁寧に伸ばした。祭りの分まで、とまでは言わないけれど。せめて今日の分は、ちゃんと美味しくしたかった。
二回目は、うまくいった。
蓋を開けると、金色の生地の下で、蜂蜜色の林檎がくつくつ光っていた。歓声を上げたのは僕で、無言で身を乗り出したのはヨゾラだった。
午後、僕たちは包み焼きを抱えて、井戸端のおばさんの家に向かった。
「ルナちゃん、これ、あんたが!?」
おばさんの声が、通りの向こうまで響いた。林檎のお返しです、と言い終わる前に、両手ごと握られて上下に振られた。この人の感謝は、いつも全身運動である。騒ぎを聞きつけた子どもたちが、匂いに釣られて集まってくる。
「まほうのおかし!?」
「詠唱したの!? かいがんせよって言った!?」
「してない!! 普通に焼いた!! お菓子に詠唱はいらない!!」
「じゃあこれ、たべても滅びない?」
「滅びない!! 僕を何だと思ってるの!?」
僕の詠唱の風評被害が、着実に村の食育を歪めている。
切り分けた包み焼きは、あっという間になくなった。子どもが頬張って、目を丸くして、おばさんが「あんたはほんとに、何でもできるんだねえ」と笑った。
何でも、ではないです。できることの出どころが、全部ろくでもないだけです。
……でも。
口の周りを蜂蜜だらけにした子どもたちを見ながら、僕は、少しだけ不思議な気持ちでいた。
元の世界で焼いたお菓子は、全部、僕が一人で食べた。美味しくできても、失敗しても、報告する相手がいなかった。焼くことは好きだったけど、焼き上がりはいつも、少しだけ静かだった。
誰かのために焼いたのは、今日が初めてだった。
焼き上がりが、こんなにうるさいのも。
夜、家に戻って、取っておいた最後のひと切れを、ヨゾラと半分にした。
暖炉の前で、ふたり、無言で匙を動かす。ヨゾラは最後のひとかけを、やっぱり大事そうに、時間をかけて食べた。それから、空になった皿をじっと見て、言った。
「……もう一つ」
「もうないよ!?」
「…………」
沈黙が、雄弁だった。皿を見つめる横顔が、世界の理不尽を静かに問うている。やがて彼女は顔を上げた。火加減大臣、兼、専属依頼主が誕生する顔だった。
「次の市で、蜂蜜、買ってくる」
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