第11話 夜半の呼声《なまえをよぶこえ》
——ルナ。
声で、目が覚めた。
暖炉の火は熾火になっていて、居間は薄い闇に沈んでいる。夜半だ。夢の続きかと思って、僕は毛布の中で寝返りを打った。
——ルナ。
夢では、なかった。
細い声だった。遠いような、近いような。壁の向こう、家の外、もっと言えば——森の方角から、それは聞こえてくる。風の音に混ぜたみたいな、けれど確かに音節を持った、僕の名前。
体を起こしかけて、僕は長老の声を思い出した。
森で名を呼ばれても、振り向くでないぞ。
ここは森じゃない。家の中だ。でも、理屈より先に、体が言うことを聞かなくなっていた。うなじの産毛が全部立っている。窓の方を見てはいけない気がした。返事も、してはいけない。息すら、細くしたほうがいい。
なぜ、あれは僕の名前を知っているのだろう。
遅れて、その疑問が背筋を這い上がってきた。……いや。知られる機会なら、あった。この村に来てから、僕は何度この名前を呼ばれた? 広場で、井戸端で、森の中でさえ。山羊を捜したあの日、男の人は森に向かって何度も「ルナ様」と叫んでいた。長老は言っていた。祠の森は、人の名を覚える、と。
覚えられて、いたのだ。僕の、あの日とっさに名乗った、作りものの名前が。
——ルナ。
三度目で、気づいてしまった。
その声は、ヨゾラの声をしていた。
心臓が一拍、変な打ち方をした。ヨゾラ? まさか。外に? こんな夜中に? 呼んでいるなら、行かないと——毛布を握った手が、そこで止まる。
違う。
ヨゾラは僕を「ルナ」と呼ぶとき、あんな引き伸ばし方をしない。彼女の呼び方はいつも短くて、まっすぐで、名前の最後がすとんと落ちる。この声は、違う。ルナ、の「ナ」が、いつまでも闇の中で伸びている。名前の形はしているのに、呼んでいない。検分している。そんな声だ。
僕は足音を殺して、ヨゾラの部屋の戸の前まで行った。
戸板に、耳を寄せる。
……寝息。規則正しい、静かな寝息が、中から聞こえた。
安堵と、それからもっと深い寒気が、同時に来た。ヨゾラは寝ている。なら、外のあれは、誰の声だ。誰が、彼女の声で、僕を呼んでいる。
——ルナ。
窓の外で、声が少しだけ近くなった気がした。
確かめるべきだ、と思った。正体もわからないまま朝まで震えているより、視てしまったほうがいい。幸い、僕には、こういうときのための目がある。
窓から離れた壁際で、右目を掌で覆う。問題は詠唱だ。叫べば、ヨゾラが起きる。外のあれに、こちらの動きも伝わる。小声で——でも、一言も削らず、本気で。できるのか、そんな器用なこと。
やるしかなかった。
「開眼せよ、我が右の瞳に封じられし深淵——万象の虚飾を穿ち、真実を暴け——《魔眼・アレテイア》」
囁きの詠唱は、想像の三倍難しかった。声量を絞ると、なりきりの熱まで一緒に絞れてしまう。右目に灯った光は、昼間の半分もない、頼りない明るさだった。それでも、視えた。
そっと、窓の縁から外を覗く。
夜の庭。月明かりの下の、畑と、柵と、森の黒い縁。
——何も、いなかった。
人の影も、獣の赤黒い筋も、庭には何もない。ただ。
森の縁のあたりの空気が、一箇所だけ、滲んでいた。熱した石の上の空気みたいに、そこだけ、夜が揺れている。魔眼の視界でも、色がつかない。金でも赤黒でもない、視えているのに視えない、輪郭だけの揺らぎ。
そして、その揺らぎのあたりから、四度目が来た。
——ルナ。
僕は、窓から離れた。それが精一杯だった。再封印の詠唱を、歯の裏側で、消え入りそうな声で言い切って、毛布に潜り込んだ。
それから朝まで、声は思い出したように何度か僕を呼んだ。僕は毛布の中で膝を抱えて、一度も、返事をしなかった。振り向きも、しなかった。
窓の外が白み始めた頃、声は、潮が引くみたいに消えた。
毛布から顔を出して、僕は天井を見た。ひどい夜だった。そして、毛布の中でずっと考えていたことが、一つある。
あの声は、「ルナ」を呼んだ。作りものの、通り名のほうを。
もし——もし、あれが呼んだのが、あっちの名前だったら。塗りつぶした、あの名前だったら。僕は、返事をしないでいられただろうか。振り向かずに、いられただろうか。
自信が、なかった。それが、声そのものより、いちばん怖かった。
朝食の席で、僕は全部話した。
髪を編む日課は、今朝も欠かさなかった。指を動かしている間だけは、夜のことを考えずに済んだからだ。編み終えてから、テーブルについて、湯気の立つスープを前に、切り出した。
ヨゾラは匙を置いて、最後まで黙って聞いた。声のこと。森の縁の揺らぎのこと。魔眼にも色が視えなかったこと。ただ一つ、どんな声だったかだけ、僕は言いよどんだ。
「……声は。その」
「私の声、だった?」
先に言われて、息が止まった。
ヨゾラは、驚いていなかった。テーブルの上で手を組んで、静かに僕を見ている。
「なんで、わかるの」
「あれは、その人が一番——返事をしてしまう声で、呼ぶから」
知っている口ぶりだった。言い伝えの又聞きではない、質感のある知り方だった。
「ヨゾラ。あの声のこと、知って——」
「返事、しなかった?」
質問に、質問が重なった。藍色の目が、まっすぐ僕を見ていた。
「……してない。一度も」
「よかった」
ヨゾラは短くそう言って、目を伏せた。組んだ手に、力がこもる。よかった、の言い方が、心底からのそれだった。安心のかたちをした、古い傷の声だった。
「——返事をした人を、知ってるから」
それ以上、彼女は言わなかった。僕も、聞けなかった。代わりに、別のことを聞いた。
「……僕、どうすればいい」
「今までどおり。夜は、窓を見ない。返事をしない。それから」
ヨゾラは立ち上がって、僕の隣まで来た。それから、少しだけ迷って、僕の袖を、指で軽くつまんだ。
「夜に呼ばれたら、私を起こして。一人で聞いてるのは、だめ」
「でも、寝てるのに」
「起こして」
二度目は、反論を予定に入れていない言い方だった。……この言い方をされると、僕はもう、頷くしかできない体になりつつある。
「わかった。起こす」
「ん」
袖から、指が離れた。
朝の光の中で、ヨゾラは長いこと、森の方角から目を離さなかった。その横顔には、僕の知らない年月が、静かに積もって見えた。
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