第12話 同盟締結《りょうしのおじさん》
昼下がり、村の広場に現れたそれは、背丈が戸口につかえそうで、肩に大きな荷と毛皮の束を担ぎ、顔の下半分が髭に埋まっていた。子どもたちが「猟師のおじさんだ!」と駆け寄っていく。熊ではなかった。例の、待ち人だった。
このところ、村は目に見えて用心深くなっていた。見回りの当番が組まれ、日暮れには家の戸が早く閉まる。子どもは一人で水汲みに出なくなった。それでも夜の声のことは、村にはまだ知らせていない。長老にだけは、今朝のうちに伝えてあった。あれから声は、来ていない。話を聞いた長老は「呼ばれ始めたか」と一言だけ、灰を見て言った。呼ばれ始めた。つまり、これは始まりで、続きがあるということだった。
知らせを受けて、僕とヨゾラが長老の家に着いたときには、猟師さんはもう囲炉裏の前にいた。近くで見ても大きい。座っているのに、目線の高さがあまり変わらない。
「——で、あんたが噂の」
髭の奥から、低い声が言った。
「森で山羊を見つけて、広場で獣を焼いた、旅の魔法使い様か」
「や、焼いてはいないです。気絶させただけで」
「ふん」
猟師さんはそれきり僕への興味を仕舞ったらしく、長老に向き直った。無駄な言葉を使わない人のようだった。この村の人は、魔法だけじゃなく口数まで削って生きている。
話は、早かった。
「森が、静かすぎる」
猟師さんの帰り道は、森の北の縁を抜けてくる。その道中、罠場の罠は全部空だった。空なのに、餌だけが古くなって残っていた。鳥の声が、しなかった。獣の骨を、三箇所で見た。食い散らかしではなく、綺麗に残された骨を。
「獣が、村の方へ寄ってる。森の奥に、居たくない理由があるんだろうよ」
長老が、僕を見た。促されて、僕は板切れに木炭で、あの扇を描いた。村、森、放射状の筋、要の位置。猟師さんは髭の奥で長いこと黙って、それから太い指で要のあたりを突いた。
「祠か」
「わしも、そう見る」
長老が頷く。猟師さんは腕を組んで、天井を仰いだ。
「……昔、若気の至りってやつで、一度だけ近くまで行った。禁を知ってて、破った口だ」
「おまえさん、それは初耳じゃぞ」
「言えるかよ、あんな——」
そこで、猟師さんの言葉が、一度切れた。
「……あの辺りだけ、季節がなかった。夏の盛りに行ったのに、祠の周りだけ、空気が冬だった。葉が落ちてた。音がなかった。それで、引き返した。それだけだ」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。誰も、しばらく喋らなかった。
季節がない場所。名前を覚える森。夜に呼ぶ声。ばらばらに聞いてきたものが、頭の中で、ひとつの方角を指していく。全部、あの扇の要だ。
「明日、北の縁を見て回る」
猟師さんが言った。
「罠を掛け直しながら、筋とやらを俺の目でも確かめる。祠には寄らん。縁だけだ。——魔法使い様よ」
「は、はいっ」
「あんたの目、道具になるらしいな。貸してくれ」
魔眼のことだ。断る理由はなかった。むしろ、大人と一緒に行けるなら心強い。
段取りは手早く決まった。夜明けとともに出て、北の縁を東から回り、罠を掛け直しながら筋を確かめて、昼過ぎには戻る。祠には近づかない。深追いはしない。おかしいと思ったら、確かめる前に引き返す。猟師さんの決め事は、どれも「生きて帰る」から逆算されていて、一つも格好をつけていなかった。格好をつけない大人の言葉は、格好をつけた僕の詠唱より、よほど頼もしく聞こえた。
「魔法使い様の得物は、その口ひとつか」
「……はい。口だけです」
「一分もらえれば、岩を熔かせるんだったな。上等だ。その一分は、俺が稼ぐ」
さらりと言われて、返事に詰まった。詠唱の間を守る、と言ってくれた人は、この世界で初めてだった。頷きかけた、そのときだった。
「私も行く」
ヨゾラだった。
猟師さんが、初めてまともにヨゾラを見た。髭の奥の目が、何かを言いかけて——ヨゾラの目とぶつかって、止まった。短い、音のないやり取りだった。猟師さんは咳払いを一つして、視線を囲炉裏に戻した。僕だけが、置いていかれた。
囲炉裏の部屋が、一瞬、静かになった。長老の眉が、ゆっくり寄っていく。
「ヨゾラや。おまえさんは——」
「北の縁の道は、途中で沢に食われてる。今の季節は、東から回らないと抜けられない」
ヨゾラは長老の言葉を静かに遮った。声は落ち着いていたけれど、膝の上の手は、あの日と同じに固く握られていた。
「回り道の目印は、もう苔で読めない。読めるのは、覚えてる人だけ」
「……なんで、あんたが北の道を知ってる」
猟師さんの目が、細くなった。ヨゾラはまっすぐにそれを受け止めて、言った。
「歩いたことがあるから。——何度も」
何度も。
村の人が近づかない森の、祠に続く側の道を。何度も。
長老は深いため息をついた。反対の言葉を探して、見つからなかった、というため息だった。猟師さんは頭を掻いて、「案内が居るなら、そのほうが早い」と結論だけ口にした。
帰り道、僕たちはしばらく無言だった。
夕方の風が、道の草を撫でていく。聞きたいことが、喉まで来ては引っ込んだ。何度も歩いた道。返事をした人を知っている。看病を、ずっとしていた。番人の話のときの、固く握られた手。
一つずつは、ただの欠片だ。でも、並べると、形になりかけている。僕はその形から、目を逸らし続けている。彼女が自分から話してくれるまでは、見ないでいたかった。
「ルナ」
隣から、声がした。いつもの、短くてまっすぐな呼び方だった。夜のあの声とは、何もかもが違う。
「明日、私から離れないで」
「……うん」
「絶対に」
念を押す声は、静かで、それから、ほんの少しだけ——震えていた。
僕は、彼女の手を見た。固く握られたその手に、自分の手を、そっと重ねた。熱の朝に、してもらったみたいに。
指が、ほどけた。
「……ん」
それだけだった。それだけで、足りた。
その夜、声は来なかった。
来なかったのに、僕は何度も目を覚まして、そのたびに森の方角へ耳を澄ませた。静かだった。静かなのが、かえって落ち着かなかった。猟師さんの言葉を思い出す。森が、静かすぎる。
明日、僕たちはその静けさの中に入っていく。
毛布の中で、僕は右手の包帯を、きつく巻き直した。
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