第13話 禁域行軍《もりのていさつ》
夜明け前、僕たちは村の北口に集まった。
空はまだ藍色で、吐く息が白い。猟師さんは弓と鉈と罠の束を背負い、ヨゾラは小さな荷と水筒を、僕は僕で、右手の包帯をいつもより固く巻いてきた。装備が口だけなのは変わらないので、せめて巻き方だけでも戦仕様である。
歩きながら、頭の中で地図を広げる。村の北に、森が横たわっている。その森の奥——ずっと奥に、祠がある。獣の通り道は、祠のあたりを要にして、村の方へ扇形に開いていた。今日僕たちが歩くのは、森の外周。縁と呼ばれる部分だ。芯には近づかない。皮だけをなぞって、様子を確かめて、帰る。
予定では、そのはずだった。
「こっち」
先頭は、ヨゾラだった。
北の道は、話のとおり途中で沢に食われていた。斜面ごと道がえぐれて、下で細い水が光っている。ヨゾラは迷わず手前の岩の間を東へ折れ、藪の切れ目を縫って、獣道とも言えない筋を進んでいく。時々足を止めて、木の幹に手を当てる。苔の生え方や、枝の折れ癖を確かめているらしい。
「……昔の目印。ここから三本目の白い木で、また北」
その案内は、気味が悪いくらい正確だった。猟師さんが何も言わずについていっている時点で、正確さの度合いは知れる。この人は、本当に、何度もここを歩いたのだ。
途中、ヨゾラが一度だけ立ち止まって、倒れかけた小さな石積みを直した。手が、勝手に動いた——そんな直し方だった。積み終えてから、自分の手を少し見て、何も言わずに歩き出した。僕も、何も聞かなかった。
森が近づくにつれ、会話が減った。
猟師さんの言うとおりだった。鳥が、鳴いていない。朝の森なら当たり前にあるはずの、羽音も、梢の擦れる音の向こうの気配も、ない。あるのは僕たち三人の足音と、時々、ヨゾラの短い道案内だけ。静けさというより、留守という感じがした。この森は今、住人に逃げられている。
並びは自然と決まっていた。先頭にヨゾラ、真ん中に僕、後ろに猟師さん。守られている配置だと気づいたのは、だいぶ歩いてからだった。一分かかる砲台は、真ん中で運ばれるものらしい。
縁に着く頃、朝日が差した。
「魔法使い様。頼む」
猟師さんに促されて、僕は例の詠唱をした。ちなみに大声版である。囁き版は半減すると学んだので、朝の森に、僕の開眼宣言が朗々と響き渡った。猟師さんは眉ひとつ動かさず「便利な口だ」とだけ言った。この人の前では、恥のほうが先に息切れする。
開いた右目に、森が別の顔を見せた。
——濃い。
赤黒い筋が、縁のこんな浅いところまで、何本も走っていた。太いのも細いのも、全部が森の奥から外へ。一週間前に山羊を捜したときより、明らかに数が増えている。しかも新しい。色の濃さが、それを教えてくる。
「筋は、全部奥から外です。数は……前より、増えてます」
指で、視えている筋を宙になぞって示す。猟師さんはその線を目で追って、自分の足元の地面と見比べた。それから、僕の視えない何か——折れた下草の向きや、土の硬さを確かめて、頷いた。
「あんたの目と、俺の読みが揃った。なら、それが正しい」
猟師さんは空の罠を拾い上げて、掛け直しながら言った。罠の周りの餌は、やっぱり古いまま残っていた。少し先の岩陰には、話に聞いた骨もあった。白く、綺麗に、並ぶように残された骨。食われたのではなく、置いていかれたような骨。誰も、それ以上は近寄らなかった。
そして、僕は見てしまった。
赤黒い筋の群れに混ざって、一本だけ、色の違う筋があった。
金色。人の跡の色だ。ただし、ひどく古い。色が褪せて、途切れ途切れで、それでもその筋は、獣たちとは逆向きに——森の奥へ、祠のある方向へ、まっすぐ続いていた。
何度も、何度も、同じ足で踏み固められた跡。通い慣れた道だけが持つ、迷いのない一本線。
僕は、隣のヨゾラを見た。
ヨゾラは僕の右目が何を視ているか、気づいたと思う。藍色の目が、一瞬だけ揺れて、それから、静かに逸らされた。
言わない、と決めたのは僕だ。彼女が話してくれるまで、見ない。だから僕は、右目を閉じるように意識を絞って、報告からその一本を外した。
「……他は、特に」
嘘は、言っていない。言っていないが、胸の奥が少しだけ痛んだ。
昼前、猟師さんが空を見て、引き上げを宣言した。
「罠は掛け直した。筋も見た。十分だ。深追いは——」
しない。そう続くはずだった言葉は、最後まで音にならなかった。
——ルナ。
森の奥から、声がした。
昼の光の中で。鳥も鳴かない静けさの中で。夜に聞いたのと同じ、あの引き伸ばされた僕の名前が、木々の間を縫って届いた。
全身が、氷になった。
夜だけじゃ、なかったのか。
「……おい。今の、聞こえたか」
猟師さんの声が、低かった。聞こえている。僕だけじゃない。この声は、僕の頭の中のものじゃなく、この森に、本当に鳴っている。それが確定した瞬間、恐怖の質が変わった。
「猟師さん、あれは——」
「喋るな。振り向くな。歩け」
短い指示が飛ぶ。僕たちは背中を森の奥へ向けて、歩き出した。一歩。二歩。心臓の音が、耳のすぐ内側でうるさい。
そして、二つ目が来た。
——ヨゾラ。
足が、止まりかけた。
その声は、僕の声をしていた。
僕の声で、僕の隣を歩く人の名前を、森の奥から、あれが呼んでいる。ヨゾラの肩が、びくりと揺れた。俯いた横顔が、白い。彼女の手が、無意識みたいに、こちらへ伸びかけて——止まる。
僕は、その手を掴んだ。今度は迷わなかった。
「振り向くな! 走れ!!」
猟師さんが吠えた。
繋いだ手を引いて、僕は走った。ヨゾラの手は冷たくて、指先が細かく震えていて、それでも僕の手を、痛いくらいに握り返してきた。背中の向こうで、声はもう一度だけ、僕の声のかたちで彼女の名前を呼んで——それきり、追っては来なかった。
森を抜けて、畑が見えて、村の屋根が見えて。膝に手をついて息を整えながら、僕は一つだけ、確信していた。
あれは、呼ぶ相手を選んでいる。
最初は僕を。次は、ヨゾラを。順番に、丁寧に、一番ほどけやすい糸から。
握ったままの手の中で、彼女の震えが、まだ止まっていなかった。
ここまで読んでくださりありがとうございます!
面白かったら ↓の☆☆☆☆☆ をポチッと評価&ブクマしていただけると、とても励みになります(^^)
☆⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️☆




