第14話 夜空の話
その夜の暖炉は、いつもより薪が多かった。
村に戻ってからの報告は、手短に済んだ。長老は昼の声の話を聞いて、長いこと灰を見つめ、それから決め事を並べた。森への立ち入りは禁止。夜の見回りは二人一組。声を聞いても、返事をしない。名を呼ばれても、振り向かない。言い伝えが、その日から村の決まりになった。猟師さんは「祠の件は、俺と長老で預かる」とだけ言って、僕とヨゾラを家に帰した。子どもみたいな扱いだったけれど、あの震えた指先を見た後では、ありがたい采配だった。
夕食は、静かだった。
ヨゾラはいつもどおりに作って、いつもどおりに食べて、でも匙の進みは遅かった。僕も、かける言葉を探しては、湯気の中に落としていた。
片付けが終わって、暖炉の前に二人で座った頃、先に口を開いたのは、彼女だった。
「ルナ。——話す」
薪が、ぱちりと鳴った。
「ずっと、話してなかったこと。あなたは、聞かないでいてくれたこと」
僕は、頷いた。それだけで、余計な言葉は全部しまった。
「この家は、番人の家だった」
ヨゾラは、暖炉の火を見たまま話し始めた。
「祠の番人。代々、うちの家の仕事。最後の番人は——ばあちゃん」
看病を、ずっとしていたという話。返事をした人を知っているという話。何度も歩いた道。倒れた石積みを直す手つき。ばらばらだった欠片が、彼女の声で、一つずつ場所に収まっていく。
「ばあちゃんは、月に何度も祠に通ってた。小さい頃から、私も供をした。道を覚えたのは、そのせい。目印の石を積み直すのも、苔を読むのも、全部ばあちゃんの手伝いで覚えた」
「……番人の仕事って、何をするの」
「わからない」
即答だった。
「祠の前で、ばあちゃんは長い言葉を唱えてた。私は少し離れたところで待たされて、中身は教えてもらえなかった。『おまえは番人にはなるな。普通に生きろ』——それが、ばあちゃんの口癖。役目の中身も、祠が何を封じてるのかも、私は知らないまま。……知る前に、ばあちゃんは病気になって、そのまま」
一年ほど前だという。長患いの祖母を、ヨゾラは一人で看取った。番人は絶えた。獣が変わり始めたのは、その後からだ。時期が、きれいに重なる。
「ばあちゃんは、怖い人だった?」
「ううん。……口は悪いけど、手は優しい人。祠から帰ると、必ず甘い匂いの薬湯を作ってくれた。あれが、私の、甘いものの思い出のいちばん最初」
甘いの、いつぶりだろ——包み焼きの日の、あの声を思い出す。年に一度の祭りにも、あまり行かなかったという話も。番人の家は、村外れにあって、村の子たちからは少しだけ遠巻きにされる家だったのだと、ヨゾラは何でもないことのように言った。何でもないことのように言える距離まで、時間をかけて運んできた話し方だった。
「母さんのことも、話す」
声の温度が、少しだけ下がった。
「私が小さい頃。夜に、声がしたの。森から、母さんを呼ぶ声が。……母さんは、返事をした。返事をして、出ていって——帰ってこなかった」
返事をした人を、知ってるから。
あの言葉の中身が、これだった。僕は、何も言えなかった。慰めの言葉は、どれも軽すぎる気がした。代わりに、膝の上の彼女の手の近くに、自分の手を置いた。触れない距離に。彼女が選べる距離に。
少しの間のあと、小指が、僕の手に触れた。
「道の手入れを続けてたのは、癖もある。けど……」
ヨゾラの声が、初めて少し揺れた。
「目印が消えたら、帰り道がわからなくなるから。……母さんが帰ってくるとき、道に迷わないように」
火の爆ぜる音だけが、しばらく部屋にあった。十年以上、彼女は帰らない人の道を直し続けてきた。あの、手が勝手に動く直し方は、そういう年月の形だった。
「それでね、ルナ」
ヨゾラが、こちらを向いた。藍色の目に、火が映っている。
「川で、あなたの詠唱を聞いたとき。綺麗だと思ったのは、本当。でも、理由があった」
「理由?」
「——ばあちゃんの言葉に、似てたから」
息が、止まった。
「祠の前でばあちゃんが唱えてた、あの長い長い言葉。この村の誰も使わない、削られてない言葉。あなたの詠唱は、あれと同じ響きがした。だから、懐かしくて、綺麗で……ちょっとだけ、泣きそうだった」
初めて聞く話だった。僕の黒歴史が、誰かの一番大事な記憶と、同じ響きをしていたなんて。
捨てたくて、封印したくて、儀式までした言葉たちだ。元の世界では、痛くて、居場所がなくて、隠すことしかできなかった。その同じ言葉が、この世界では、たった一人の女の子の、懐かしくて泣きそうになる響きだった。
言葉は、変わっていない。聞いてくれる人が、いただけだ。
だったら、僕も言わなくてはいけないことがある。
「ヨゾラ。僕、視えたものを一つ、報告しなかった」
「……金色の筋、でしょ」
知っていた。やっぱり。
「あれは、ばあちゃんと私の道。祠まで続いてる、番人の道。……黙っててくれて、ありがとう。でも、もう隠さなくていい」
それから、ヨゾラは膝の上で手を握って、一番言いにくそうなことを、言った。
「昼の声。私、怖かった。声の主が怖いんじゃなくて——返事を、しそうになったのが怖かった。だって、あの声」
あなたの声だったから。
言葉にならなかった続きを、僕は受け取った。母を呼んだ夜と、同じ仕組み。一番返事をしてしまう声で、あれは呼ぶ。今のヨゾラにとって、それが僕の声だという事実に、心臓が痛いような、それでいて、静かに火が灯るような、変な気持ちになった。
「じゃあ、約束しよう」
気がついたら、言っていた。
「僕が本物のときは、ちゃんとわかるように呼ぶ。ヨゾラが言ってたやつ——名前の最後が、すとんと落ちる呼び方。あれ、僕もわかる。だから、伸びてる『ヨゾラぁ』は全部偽物。返事しなくていい」
「……ふ」
ヨゾラが、小さく吹き出した。今日初めての、ちゃんとした笑いだった。
「何、その決まり」
「大事な決まりです。試すよ。——ヨゾラ」
すとん、と落として呼んだ。彼女は目を細めて、いつもの、短い返事をした。
「……ん」
その夜、声は来なかった。
来たとしても、たぶん、もう大丈夫だった。本物の呼び方を知っている耳は、偽物に少しだけ強くなる。暖炉の火が落ちるまで、僕たちはどちらからともなく、ぽつぽつと、なんでもない話をした。ばあちゃんの薬湯の味のこと。僕の世界のオーブンのこと。今度の市で買う蜂蜜の量のこと。
帰らない人の道を直し続けた子と、捨てたい名前を捨てられなかった僕が、同じ火にあたっている。それは、なんだか、悪くない夜だった。
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