第15話 月輪聖域《いえのけっかい》
「よるに、こえがきこえても!」
「へんじ、しなーい!」
朝の広場で、子どもたちが声を揃えていた。
新しい村の決まりは、あっという間に、子どもたちの遊び歌になっていた。片方が節をつけて問いかけ、残りが両手で口を塞いで答える。笑いながらやっているのを見ると微笑ましくて、でも、遊びにしてでも覚えさせなきゃいけない決まりなのだと思うと、喉の奥が少し冷える。
村は、警戒の形に組み変わっていた。夜の見回りは二人一組。井戸端のおばさんは腰に巨大な鉄鍋の蓋を提げて歩いている。盾のつもりらしい。効くかどうかは別として、士気は高い。
「ルナちゃん、あんたも夜は出歩くんじゃないよ」
「は、はい。出ません」
「声がしてもね、あたしゃ返事しないよ。亭主の声でもね。……まあ、あの人の声なら、間違えようがないけどね。寝言がうるさいから」
どういう理屈かはわからなかったが、おばさんは強い。
その日の夕方、僕は家の裏の野原にいた。
思いついたことが、あったのだ。
夜のたびに、毛布の中で震えて待つのは、もう嫌だった。返事をしない、窓を見ない——守りが全部「しない」ことばかりなのも、心細さに拍車をかける。だったら、こちらから張れる守りが欲しい。そして、僕のノートには、あるのだ。こういうときのための設定が。いつだって、あるのが問題なのだけど。
『禁忌の書』、後ろから数えたほうが早いページ。結界の章。
「やるの?」
ついてきたヨゾラが、切り株に腰を下ろした。定位置である。この子は僕の詠唱を、いつのまにか観覧席つきで聞くものだと思っている節がある。
「やります。……笑わないでね」
「笑ったこと、ない」
それは、そうだった。一度も、ない。だから僕は、この子の前でだけは、息を吸うのが少しだけ楽なのだ。
家に向き直る。両手を広げる。あの頃、部屋の四隅に消しゴムを置いて「結界の楔」と呼んでいた僕の、全記憶を右手に集める。
「集え、月影に伏す七つの盾」
声が、夕方の野原に通る。
「千の夜を守りし白銀の円環——我が家を、界の内に匿え——《月輪結界》!!」
言い切った瞬間、手の中の熱が、ふわりと広がった。
銀色の、薄い光の膜。それが家をまるごと包むように、夕空へ立ち上がっていく。膜は魚の鱗みたいに一度きらめいて、それから、目を凝らさないとわからないくらいの淡さに落ち着いた。
「……できて、しまった」
「できると思って、やったんじゃないの」
「思ってやるのと、できてしまうのは別なんです」
結界の膜に近づいて、手で触れてみる。ぬるい水の面みたいな、かすかな抵抗。強度は正直、わからない。獣を止められるのか、あの声に効くのかも、わからない。それでも、「しない」ばかりだった守りに、初めて「する」が一つ増えた。それだけで、胸の中の重心が少し変わった。
ただし、タダではなかった。
膜を張ってから、体の芯が、じわじわと重い。走ったあとみたいな疲れが、ゆっくり積もってくる。どうやらこの結界、張りっぱなしにしておくと、僕から少しずつ何かを吸うらしい。一晩が限度、というのが体感の見立てだった。毎晩張り直すとして、毎晩あの詠唱を叫ぶのか。ご近所に。毎晩。……考えるのはやめよう。
「月の結界なんだ」
ヨゾラが膜を見上げたまま言った。
「ルナで、月影で、月の輪。あなたの設定、月ばっかり」
「……好きだったので。月」
「知ってる」
何を知られているのだろう。怖くて聞けなかった。
「ねえ、ルナ」
ヨゾラが、切り株から膜を見上げて、ぽつりと言った。
「今の詠唱。最初に、名前を呼んでた」
「え?」
「月影に伏す七つの盾——って。呼びかけて、それから、その盾がどういうものかを話して、最後に命令してた。……ばあちゃんの言葉も、そうだった」
心臓が、とん、と鳴った。
「祠の前の長い言葉。中身は覚えてないけど、形は覚えてる。最初に、何かの名前を呼ぶの。それから、その何かの昔の話をずっとして、最後に、お願いだか命令だかで終わる。——あなたの詠唱と、同じ形」
言われて、僕は頭の中で、自分の詠唱を並べてみた。
我が右腕に眠りし紅蓮の獣よ——呼びかけ。千年の封を解き——来歴。顕現せよ——命令。
開眼せよ、我が右の瞳に封じられし深淵——呼びかけ。万象の虚飾を穿ち——由来。暴け——命令。
……全部、同じ骨組みでできていた。
名前を呼んで、来歴を語って、命じる。中学生の僕が、格好いいからという理由だけで選んだ三段構えが、この世界で番人だけが使っていた言葉と、同じ文法をしている。
偶然、だろうか。
それとも、大きな力を持つ言葉というのは、世界がどこであれ、この形に行き着くのだろうか。名前を呼ばれたものだけが、言葉に応える——だとしたら、あの森が名前を集めているのも、同じ理屈の裏側ということにならないか。
考えは、そこで止めた。先は、まだ暗くて見えない。ただ、一つだけ確かなことがある。
「……僕の黒歴史、思ったより、ちゃんとしてるのかもしれない」
「ん。前から、ちゃんとしてる」
真顔で返されて、どう受け取っていいか、わからなかった。
その夜、声が来た。
——ルナ。
毛布の中で、僕は目を開けた。約束どおり、ヨゾラを起こそうと身を起こしかけて——気づいた。
声が、遠い。
今までの、耳のすぐ後ろで囁かれるような近さがない。窓の外、膜一枚を隔てた向こうから、くぐもって届く。呼ばれているのに、名前が僕まで届き切らない。水の中で呼ばれているみたいだった。
そっと窓辺に寄って、カーテンの隙間から、視た。
銀の膜の外に、あの揺らぎがいた。夜の空気の、輪郭だけの歪み。それが膜に沿って、ゆっくり、ゆっくり、回っている。入り口を探すみたいに。撫でるみたいに。そして、見つからないまま——夜の底へ、すうっと薄れて消えた。
膜が、月明かりを受けて、静かに光っていた。
僕の言葉が、張った守りだった。
「……ルナ?」
背後で、眠そうな声がした。振り返ると、ヨゾラが自分の部屋の戸口に立っていた。
「来たの?」
「……来た。でも」
「起こして、って言ったのに」
眠そうな目のまま、責める言葉だけがはっきりしていた。ごめん、と謝る。膜が効いているとわかった瞬間、観察のほうが先に立ってしまった。約束は、効いている夜にこそ守るものだった。
「次は起こす。ほんとに。……それより、見て」
窓辺に呼んで、カーテンの隙間を分けてやる。銀の膜と、もう何もいない夜の庭。ヨゾラは長いことそれを見て、それから、僕を見た。
「届かなかったんだ。あなたの名前」
「……みたい」
「そう」
ヨゾラは膜をもう一度見て、小さく、本当に小さく、言った。
「ばあちゃんが見たら、なんて言うかな」
その声は、寂しさと、それによく似た別のものでできていた。誇らしさ、と呼んでいいのか、僕にはまだわからなかったけれど。
その夜は、二人とも、朝までよく眠れた。銀の膜は、夜明けの光が来るまで、静かに家を包んでいた。
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