第16話 清聴の秘蹟《みみかき》
夜明けとともに、僕たちは南の街道を歩き出した。
市の日である。場所は隣村。森とは反対側の、開けた街道を半日歩く道のりだ。物騒なご時世に外出かとも思ったけれど、長老の許しは出た。「昼のうちに行って、日暮れ前に戻れ。街道は森から遠い」——それと、餞別みたいに一言。「たまには、若い者らしい顔をしてこいや」。
出発のヨゾラの装備は、こうである。背中の籠、弁当、水筒、そして革の財布。財布の紐は、出がけに三回確かめられた。
「……そんなに買うの? 蜂蜜」
「壺で、二つ」
「二つ!?」
「ひと壺は、料理用。もうひと壺は」
ヨゾラは前を向いたまま、真剣な声で言った。
「お菓子、専用」
専用枠が生まれていた。火加減大臣の予算編成に、僕の口出しできる余地はなさそうだった。
街道は、いい道だった。
畑と草地の間を、緩くうねりながら続いていく。森が視界に入らないだけで、肩の力の抜け方が違う。ヨゾラも、心なしか歩調が軽い。途中の切り株で弁当を分けて、水筒を回して、僕の世界の「遠足」の話をしたら、彼女は「それ、いい制度」と真顔で頷いた。制度ではない。
「市、よく来てたの?」
「年に何度か。ばあちゃんの薬草を売りに。……売るだけ売って、すぐ帰ってた」
寄り道は、と聞きかけて、やめた。答えは想像がついたし、だったら今日、すればいいのだ。寄り道も、飴細工も、遠回りも。
隣村の市は、思ったよりずっと賑やかだった。
街道沿いの広場に露店が並び、穀物、布、刃物、干し魚、飴細工。人の声と、呼び込みと、どこかの鶏の鳴き声。うちの村の静けさに慣れた耳には、音の洪水だった。そして僕はここで、大事なことを学んだ。ヨゾラは、買い物が強い。
「蜂蜜。壺で二つ。……この色、去年の花のでしょ。ひと壺ぶんは、まけて」
「う、相変わらず目が利くねえ、番人とこの……」
蜂蜜屋のおじさんは、そこで言葉を飲み込んだ。ヨゾラの顔を見て、それから、隣の僕を見て、咳払いを一つ。値段は、ヨゾラの言い値になった。番人とこの。飲み込まれた続きを、僕は聞かなかったことにした。この子の名前は、隣の村まで届いている。届き方に、少しだけ棘のある形で。
目についた飴細工の屋台で、僕は二本、買った。月の形と、星の形。深い意味はない。なかったことにする。ヨゾラは月のほうを受け取って、しばらく眺めてから、小さく齧った。甘い、と目が言っていた。口には出さないのに、目が全部言う人である。
帰り際、ヨゾラが一つの露店の前で足を止めた。
小物の店だった。木の匙、櫛、ボタン。その隅の、細い銀色の棒を、彼女は手に取った。先が小さな匙になっている。
「それ、何?」
「ん。……いいから」
いいから、で買い物が終わった。何に使うのか、教えてはもらえなかった。
帰り道、夕暮れの街道で、商人の荷馬車とすれ違った。うちの村に行商に来るという男の人は、すれ違いざま、世間話みたいに言った。
「おたくの森のほう、最近どうだい。北の集落でも、獣が里に下りてるって聞くよ」
北の集落でも。
ヨゾラと、目が合った。扇はきっと、僕たちの村にだけ開いているのではない。祠を中心に、円のかたちで。……その話は、長老に伝えることにして、僕たちは足を速めた。日暮れ前には、ちゃんと帰り着いた。
夕食のあと、僕はいつもの詠唱で結界を張った。昨夜始めたばかりの、二晩目にして、すっかり日課の顔をしている。銀の膜が家を包むのを確かめて、居間に戻ると、ヨゾラが暖炉の前に座布団を並べていた。
その膝を、ぽんぽん、と叩く。
「……何の合図?」
「膝。貸すから」
「なんで!?」
「耳」
ヨゾラは、昼間の銀色の棒を掲げた。先が匙になった、あれ。ようやく正体がわかった。耳掻きだ。
「あなた、毎晩、耳を澄ませてるでしょ。声が来ないかって。……今日、市で思った。それなら、耳は綺麗にしておくべき」
「理屈が変!?」
「変じゃない。おいで」
「じ、自分でできます。耳くらい」
「奥は見えない。人にやってもらうもの」
「そういう文化なのこの世界!?」
「うちの文化」
一軒の家を文化と言い張られたら、居候に反論の権利はない。論理の破綻を、声の静かさで押し切られた。結局、僕は敗北して、彼女の膝に頭を預けた。
……近い。
いや、近いのはわかっていた。膝枕とはそういうものだ。わかっていたけれど、視界の上半分がヨゾラで、呼吸の音が聞こえる距離で、銀の髪が僕の頬のすぐ横に垂れている。心臓の音が、彼女の膝に伝わっていないか、それだけが心配だった。
「動かないで」
耳に、そっと、細い感触が触れた。
くすぐったさは、最初だけだった。ヨゾラの手つきは、看病のときと同じで、迷いがなくて、丁寧だった。かり、かり、と小さな音が、頭の内側で鳴る。暖炉の火の爆ぜる音と、彼女の呼吸と、耳の中の小さな音だけの世界になる。
体から、力が抜けていく。
「……気持ちいい?」
「……悔しいけど」
「ん。上手だから」
「誰にやってたの、これ」
「ばあちゃん。……最後の年は、ずっと寝てたから。耳も、髪も、私がやってた」
手を止めずに、ヨゾラは言った。声は静かで、湿ってはいなかった。思い出を、ちゃんと置ける場所に置いてある声だった。
「だから、久しぶり。誰かの耳」
「……光栄です」
「はい、反対」
頭の向きを変えさせられる。今度は、彼女のお腹側に顔が向く体勢で、それはそれで心臓に悪かった。かり、かり。火の音。呼吸。夜のどこかで風が鳴って、でも、名前を呼ぶ声はしない。銀の膜の内側は、今夜も静かだった。
「ねえ、ルナ」
うとうとしかけた頭の上で、声がした。
「あなたの耳は、私が綺麗にしておく。……偽物の声が、入る隙間もないくらい」
理屈は、やっぱり変だと思う。耳垢と怪異に、因果はたぶん、ない。
でも。
偽の声から僕の耳を守る係を、この子が自分から名乗り出てくれたのだということだけは、眠りに落ちる寸前の頭でも、ちゃんとわかった。
「……じゃあ」
半分夢の中で、僕は言ったらしい。
「僕の耳、ヨゾラの係で」
返事は、聞こえなかった。代わりに、耳の上を、指がひと撫で、通り過ぎた気がした。
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