第17話 継承の勅書《ばあちゃんのてちょう》
囲炉裏の灰に、円が描かれていた。
扇では、もうなかった。真ん中に祠の印。そこから四方八方へ、火箸の線が放射状に伸びて、外側をぐるりと円が囲んでいる。昨日までの僕たちの地図が、一晩で描き直されていた。
朝いちばん、長老の家に呼ばれたのは、僕とヨゾラと、猟師さんだった。
呼びに来た見回りの男の人は「長老様が、朝のうちに」とだけ言って、詳しくは知らされていない様子だった。それでも道すがら、村の空気が少し変わっているのはわかった。井戸端の話し声が低い。畑に出る人の足が早い。噂は、正式な知らせより速く走る。北の集落でも、という昨日のあの一言は、もう村を一周したらしかった。
「行商の話、聞いたぞ」
猟師さんが、僕を見て言った。昨日の帰りに長老へ伝えた、北の集落の噂。それだけではなかったらしい。猟師さんは市の日、罠仲間からも言伝を集めていた。西の谷の村でも、獣が畑を荒らし始めた。東の川沿いでも、夜に家畜が騒ぐ。
「森を囲む里が、全部やられ始めてる。うちだけじゃねえ」
火箸の先が、灰の円をなぞった。
「扇じゃなく、円だ。祠を真ん中にした、円。……押し出されてるんだよ、獣どもは。あの祠から、四方八方へ」
円、という形の意味を、僕は遅れて飲み込んだ。
扇なら、うちの村の問題だった。円なら、森を囲む全部の里の問題だ。番人の噂は届いても、その務めの中身は、うちの村の者すら知らない。よその里は、獣が増えたわけも知らないまま、冬を迎えようとしている。
「封が、緩んでおる」
長老が、静かに言った。誰も、否定しなかった。番人が絶えて一年。獣が変わり、声が呼び始め、円は広がり続けている。放っておいて戻る流れではないことは、この場の全員が、もう腹の底でわかっていた。
「——番人の、代わりが要る」
長老の言葉が、囲炉裏の上に落ちた。
重い沈黙のあと、視線が、ゆっくり動いた。僕にではない。僕の隣に。番人の血を引く、最後の一人に。
「私が」
ヨゾラが口を開きかけた、その瞬間だった。
「よせ」
猟師さんの声が、かぶさった。低くて、有無を言わせない声だった。
「役目の中身も知らされてねえ嬢ちゃんに、何をさせる気だ。先代は、あんたに継がせなかった。それが答えだろう」
「でも、他に誰が——」
「おる、かもしれん」
長老だった。
皺の奥の目が、ゆっくりと、僕に向いた。
「ルナや。おまえさん、家に界を張ったそうじゃの」
……見られていた。いや、あの銀の膜は夜目にも光る。見回りの大人たちが気づかないはずがなかった。僕は観念して、頷いた。それから、ずっと胸の中で温めていた仮説を、初めて人前に出した。
番人の祝詞と、僕の詠唱は、同じ形をしていること。名前を呼び、来歴を語り、命じる——この世界の誰も使わない、削られていない言葉であること。その言葉で張った界が、現にあの声を、一晩さえぎったこと。
話しながら、囲炉裏の火を見た。ヨゾラの顔を見る勇気は、まだなかった。
「……偶然かもしれません。でも、もし同じ種類の言葉なら。僕の言葉は、祠の封じの、代わりになるかもしれない」
言い切ってから、自分の心臓の音を聞いた。
番人の代わり。あの森の、あの声の、大元へ行くということ。怖くないわけがなかった。でも、円は広がっている。冬は来る。そして僕の黒歴史は——この世界でたった一つの、削られていない言葉なのだ。
長老は、すぐには答えなかった。猟師さんが、腕を組んだまま口を開いた。
「……界とやらは、俺も見た。夜回りの度にな。あの光る膜は、嬢ちゃんの言うまじないの膜だ。獣も、あの家にだけは寄りつかねえ」
裏付けが、思わぬところから来た。猟師さんは僕を見て、それから灰の円を見て、短く言った。
「得物が口ひとつの魔法使い様が、この村でいちばんの隠し玉かもしれねえって話だ」
「だめ」
即答したのは、ヨゾラだった。
「あの祠が何を封じてるか、誰も知らない。ばあちゃんが何をしてたのかも。何も知らないまま、あなたを行かせるなんて——」
「それはの、ヨゾラや」
長老が、静かに遮った。
「知る手立てが、ないわけではない」
長老は立ち上がると、奥の間へ入り、しばらくして、古い木の箱を抱えて戻ってきた。両手に収まるほどの、飾りのない文箱。蓋の角が、長年の手擦れで丸くなっている。
「先代——おまえさんの婆様から、預かっておった」
ヨゾラの目が、見開かれた。
「亡くなる少し前じゃ。これをわしに預けて、言い残した。『いずれ、言葉の遠い匂いのする者が来る。そのときが来たら、渡せ』と」
言葉の、遠い匂い。
……初めて長老の家に来た日、言われた言葉だ。おまえさんの言葉は、遠い匂いがするの——あれは、長老の勘ではなかった。先代の番人が残した、目印だったのだ。一年前に亡くなった人が、僕みたいな誰かが来ることを、知っていたかのように。
「婆様は、ヨゾラや、おまえさんには継がせぬと決めた。それも、この預かりものの内じゃ。恨むなら、婆様の深慮を恨みや。……ルナ」
文箱が、囲炉裏越しに、僕の前へ置かれた。
「開けてみい」
隣で、ヨゾラが息を詰めるのがわかった。祖母の遺したものが、一年越しに、彼女の知らない形で目の前に現れている。膝の上の手が、固く握られて——それから、ゆっくり、ほどかれた。ほどいて、彼女は小さく頷いた。開けて、という頷きだった。
手が、少しだけ震えた。蓋は、乾いた小さな音を立てて開いた。
中には、布に包まれた一冊の帳面が入っていた。厚くて、角が擦り切れて、何十年も手の中にあったことがわかる帳面。布をほどくと、表紙に、力のある筆跡で一行、書かれていた。
『言葉を継ぐ者へ』
囲炉裏の火が、表紙の上で揺れた。
継ぐ者。宛名は、名前ではなかった。誰でもいいのではなく、誰であるかを問わない宛名。この帳面を書いた人は、血ではなく、言葉で継ぎ手を選んだのだ。
一年前に亡くなった、会ったこともないおばあさんの字を、僕は指でなぞった。隣で、ヨゾラが同じ字を見つめていた。彼女のよく知る字を、僕の知らない字を、二人で。
ページを、めくる前に。僕は一度だけ、深く息を吸った。
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