第18話 継がれる言葉《ばあちゃんのこえ》
『言葉を継ぐ者へ。この帳面を開いたということは、わたしは死に、封は緩み、おまえは長老の婆に見込まれたのだろう。ご苦労なことだ』
一行目から、こうだった。
隣で、ヨゾラが小さく息を漏らした。笑ったのだと、遅れて気づいた。目の縁を光らせたまま、彼女は囁いた。
「……ばあちゃんだ」
文字から、声が聞こえる人がいるのだ。僕は囲炉裏の火の前で、一枚ずつ、声に出して読んでいった。長老と猟師さんが、黙って聞いていた。
ヨゾラは、僕の隣にいた。
だめ、と言った口のまま、席を立たなかった。反対したままの横顔で、それでも帳面の字を、一字も逃さず見つめていた。反対することと、隣にいることを、この子は両方選んでいる。その横顔を見たら、読む声が、少しだけ落ち着いた。
帳面の中身は、番人の引き継ぎ書だった。
『祠に封じてあるのは、名喰いと呼びならわすものだ。正体は、わたしも知らぬ。初代の番人が言葉で封じたとだけ、伝わっている。あれは名を集める。名を呼び、応えた者を——喰う』
名喰い。
声の主に、初めて名前がついた。応えた者を喰う。ヨゾラの母のことを、この場の誰も口にしなかった。しなかったけれど、囲炉裏の火が爆ぜる音が、いやに大きく聞こえた。
『封の内から漏れるのは、呼ぶ声だけだ。番人の務めは、月のうち幾度か、祠の前で鎮めの祝詞を唱え、封の結び目を締め直すこと。祝詞が続くかぎり、声は細り、獣は静まる。番が絶えれば、この逆になる』
この一年に起きたことの、答え合わせだった。猟師さんが低く唸って、腕を組み直した。
「……季節のねえ場所も、綺麗に残された骨も、これで筋が通る。あの森は、喰い場じゃなくて、檻だったわけだ」
「初代の番人、のう」
長老が、ぽつりと言った。
「わしが婆様から聞かされたのは、『昔からの約束』というだけじゃった。約束の始まりに、そんな昔があったとはの」
この村より、うちの家より古い話だ、とヨゾラが小さく言った。誰も、その古さの底を覗けなかった。
そして、次のページで、僕は止まった。
『祝詞の文句は、ここには書かぬ。書いても無駄だからだ』
「……え」
『祝詞は、唱え手が己で編んだ言葉でなければ、あれには届かぬ。借り物の言葉は、ただの音だ。代々の番人は、皆、己の祝詞を己で編んできた。わたしの言葉はわたしと共に死ぬ。おまえは、おまえの言葉で唱えよ』
『名を呼べ。来歴を語れ。命じよ。おまえが心の底から本気になれる言葉なら——形は、なんでもよい』
手が、震えた。
形は、なんでもよい。心の底から本気になれる言葉なら。
……あるのだ。僕には。五年かけて編んだ、誰にも聞かせられない、僕にしか唱えられない言葉たちが。ノート一冊ぶん、まるごと。
中二病の詠唱でしか魔法が出ない。この世界に来てからずっと、それは僕の欠陥だった。恥だった。でも、この帳面は言っている。それこそが、祝詞の条件だと。己で編み、己が本気で信じた言葉だけが、あれに届くのだと。
僕の黒歴史は、資格だった。
顔を上げると、長老と猟師さんが、こちらを見ていた。二人とも、同じことを考えている顔だった。己で編んだ、本気の言葉。この村で——たぶんこの世界で、その条件を満たす人間を、彼らは一人しか知らない。
「決まりだの」
長老が言い、猟師さんが「支度は俺が請け負う」と続けた。話が、僕の返事より先に進んでいく。待ってほしい。いや、待ってほしくない。自分でもどちらかわからないまま、僕は帳面の続きに目を落とした。
『最後に、一番大事なことを書く』
祖母の字が、そこだけ、強くなった。
『まことの名を、あれの前で明かすな。名は、封にもなり——鍵にもなる』
背筋が、冷えた。
封印したはずの、僕の本当の名前。塗りつぶした、あのページ。呼ばれたら世界が変わると信じていた名前は、あれの前では、封を開ける鍵にもなり得るということだ。持っていることすら、危ういもの。
読み終えるまで、誰も口を挟まなかった。最後のページの手前で、字体が少し、柔らかくなった。
『……もしも、これを読む者の隣に、わたしの孫がいるなら。少しだけ、続きを読ませてやってくれ』
僕は、帳面を、そっとヨゾラの膝に置いた。
彼女は、しばらく動かなかった。それから、両手で帳面を持ち上げて、最後のページを、一人で読んだ。声には、出さなかった。読み終わるまでの長い間、囲炉裏の火だけが、部屋の中で動いていた。
読み終えて、ヨゾラは帳面を胸に抱いた。何が書いてあったのか、誰も聞かなかった。彼女の目から音もなく落ちたものについても、誰も、何も言わなかった。長老だけが、皺の奥の目を細めて、小さく頷いていた。
その夜、家に帰って、僕は結界を張った。
いつもの詠唱が、今夜は少しだけ、違って聞こえた。祝詞。そうか、これは、僕の祝詞だったのか。五年前の僕へ。君の恥ずかしい言葉は、十六歳の君と、一つの村を守っている。
暖炉の前で、ヨゾラは帳面を膝に載せたまま、ずっと黙っていた。僕も、急かさなかった。薪が二本、燃え尽きた頃、彼女はようやく口を開いた。
「だめ、って言った」
「うん」
「今も、思ってる。あなたを祠に行かせるのは、だめだって。名喰いなんてものの前に、あなたを立たせるのは」
帳面を抱く手に、力がこもる。
「でも、あなたは行くって顔をしてる。ばあちゃんの帳面を読んでるとき、ずっと。……資格を見つけた人の顔、してた」
見抜かれていた。この子には、最初の川辺の日から、ずっと。
「だから、条件がある」
ヨゾラは顔を上げた。藍色の目が、まっすぐ僕を見た。反対の色を残したまま、それでも決めた目だった。
「私も行く。祠までの道は、私しか知らない。……それに」
一度言葉を切って、彼女は、帳面をそっと撫でた。
「あなたの祝詞を、いちばん近くで聞く係は、私だから」
耳の係、髪の係、火加減の係。僕たちの間に増えていった小さな係の列に、いちばん重い係が、いま静かに並んだ。
断る言葉を、僕は持っていなかった。持っていたとしても、使わなかったと思う。あの森に、あの声の大元に、一人で立つ勇気と、この子と行く勇気なら——後者のほうが、ずっと僕の本気に近い。
「……じゃあ、契約成立で」
「ん」
ヨゾラは頷いて、それから、ほんの少しだけ笑った。
「詠唱は、しなくていいの? 契約の」
「し、しません!! そういうのじゃないので!!」
……本当は、契約の詠唱も、ノートの何ページ目かにある。あることは、当分、黙っておこうと思う。
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