第19話 決戦前夜《したく》
「装備は軽く。覚悟は重く。それだけだ」
朝から呼び出された猟師さんの家で、支度の講義はその一言から始まった。
床に並べられたのは、三人分の荷物だった。水、保存食、火口、油布、細引きの縄。それから、僕には小ぶりの鉈が一本。使えるとは思われていないらしく、「藪を払うだけでいい。人に向けるな、自分の足に向けるな」と、使い道より先に禁止事項を教わった。ごもっともである。
行程も決まった。明日の夜明けに発つ。番人の道をヨゾラの案内で進み、日のあるうちに祠へ。僕が祝詞を唱え、封の結び目とやらを締め直し、日暮れ前に森を出る。泊まりはしない。あの森で夜を迎えることだけは、絶対にしない。
「祝詞は、できてるのか」
猟師さんに聞かれて、僕は一瞬詰まって、それから正直に言った。
「……あと、一行だけ」
嘘をついていい相手でも、場面でもなかった。昨日の夜からずっと机に向かって、『禁忌の書』を隅から隅まで読み返して、素材は山ほどあるのに、肝心の最後の一行だけが書けずにいる。猟師さんは眉ひとつ動かさず、荷の紐を締めながら言った。
「まだ丸一日ある。決まらなけりゃ、道中で仕上げろ。口は歩きながらでも動く」
格好をつけない大人の言葉は、今日も頼もしかった。荷物の点検より先に、心の点検が済んでしまった。
猟師さんの家を出たところで、子どもたちに捕まった。
「ルナさま、あした、とおくに行くの?」
村への説明は「森の見回りの、大掛かりなやつ」ということになっている。嘘ではない。全部でもない。頷くと、子どもたちは顔を見合わせて、それから、握った手のひらを差し出してきた。開かれた小さな手の中に、どんぐりが三つ。
「おまもり! かいがんせよ、って言っておいた!」
「それは開眼してしまうのでは!?」
魔眼の詠唱を吹き込まれたどんぐりを、僕はありがたく受け取った。効能はともかく、気持ちは満タンに入っている。ポケットの中で、三つの固い実が、ころりと鳴った。
午後、僕は家の机で、また白い紙とにらみ合っていた。
名を呼べ。来歴を語れ。命じよ。形はなんでもよい——祖母の帳面の言葉を、何度も思い返す。呼びかけと来歴までは、書けたのだ。封の結び目を「月鎖」と名づけて、月の光が編んだ千年の鎖、という来歴も付けた。我ながら、いい設定だと思う。五年前の僕が隣にいたら、握手を求めてくるはずだ。
問題は、最後の一行だった。
命令の言葉が、決まらない。「封じよ」では、嘘になる気がした。封じるのは鎖であって、僕の言葉は鎖を締め直すだけだ。「鎮まれ」も違う。鎮まってほしいのは本音だけれど、僕の本気が、その言葉に乗らない。書いては消し、消しては書き、紙の同じ場所だけが薄くなっていく。
本気になれる言葉なら、形はなんでもよい。
逆に言えば、本気になれない言葉は、どれだけ格好よくても、ただの音なのだ。僕はまだ、あの祠に対して、自分が本気で何を命じたいのか——それが、わかっていないのかもしれなかった。
「煮詰まってる顔」
いつの間にか、ヨゾラが横に立っていた。湯呑みが、ことりと置かれる。青くさい匂い。あの、苦い薬草の茶だ。
「……最後の一行だけ、決まらなくて」
「ん。……ばあちゃんも、よく唸ってた」
「え?」
「祝詞、時々、書き直してたから。机で、頭抱えて。おばあちゃんでも唸るんだって、見てた」
代々の番人が己の祝詞を己で編む、ということは、代々の番人がこうやって唸ってきた、ということだ。あの達筆の帳面の主も、同じ机の前で頭を抱えていた。そう思ったら、白い紙が、少しだけ怖くなくなった。
「決まらないまま行くの、だめかな」
「ばあちゃんなら、たぶんこう言う」
ヨゾラは、少しだけ祖母の口真似めいた、ぶっきらぼうな声を作った。
「——言葉は、机の上で決まらん。決まる場所で決まる」
……名言である。出典がばあちゃんなのか即興のヨゾラなのかは、怖くて聞けなかった。
夕方、荷物を詰め終えて、僕は最後に、小さな固いケースを手に取った。
赤いカラコン。邪眼用の、あれ。
転移からずっと、荷物の底で眠らせてきた。着ければ、なりきりの度合いが上がる。つまり、僕の言葉が強くなる。わかっていて、ずっと使わなかった。あれを着けた僕は、あの頃の僕に、一番近くなってしまうから。
でも、明日行く場所は、言葉の強さがすべての場所だ。
「……切り札は、持っていく」
ケースを、荷物のいちばん上に入れた。使わずに済むなら、それでいい。済まないなら——そのときは、五年前の僕に、全部着てもらう。
夜、出発の前の髪を編んだ。
いつものゆるい一本編みではなく、今夜は編み込みだ。走っても、枝に引っかけても、ほどけない編み方。設定画三ページの中の一枚、「戦闘用の編み込み」——まさか実戦投入の日が来るとは、描いた僕も思っていなかっただろう。
「きつくない?」
「ん。……強そう?」
「強そう」
水盆を覗き込んで、ヨゾラは編み込みを指でなぞった。それから、僕の後ろに回って、櫛を手に取った。
「はい、次。あなた」
「僕、編むほど長くないよ」
「整えるだけ。……戦支度は、お互いに、するもの」
短い髪に櫛が通る。耳の上を、指がかすめる。暖炉の火と、櫛の音と、外側では今夜も、銀の膜が家を包んでいる。この静けさを守るために行くのだと思ったら、最後の一行のことは、少しだけ、遠くなった。
夜明け前、村の入り口に、見送りが立っていた。
長老と、井戸端のおばさん。おばさんは何も聞かずに、布に包んだ握り飯を三人分、猟師さんの荷に押し込んだ。
「何も聞かないよ。聞かないけどね」
それから僕とヨゾラの手を、順番に、両手でぎゅうっと握った。
「——帰っておいで。晩ごはんの支度して、待ってるから」
長老は、杖をついたまま、短く言った。
「行ってきや。……名を呼ばれても、振り向くでないぞ」
聞き慣れた言い伝えが、今日だけは、餞の言葉だった。
歩き出す直前、ヨゾラが半歩、僕に寄った。
「約束、覚えてる?」
「すとんと落ちる呼び方。伸びてるのは全部偽物」
「ん。……森の中では、それだけ、忘れないで」
頷き合う。それだけの、短い点呼だった。でも、この点呼ができる相手と行くのだと思うと、鉈より、どんぐりより、これがいちばんの装備な気がした。
東の空が、白み始めている。ヨゾラが先頭に立ち、猟師さんが最後尾につき、僕は真ん中で、一歩目を踏み出した。
森が、夜明けの色の中で、静かに待っていた。
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