第20話 氷雪の玉座《ふゆのすわるばしょ》
番人の道は、思ったより優しかった。
森の縁から北へ、藪と岩の間を縫っていく細い道。けれど足元は不思議と歩きやすくて、張り出した根には浅い段が刻まれ、滑りそうな岩には手がかりの窪みがある。何十年、何百年と、同じ家の人間が同じ足で通い続けた道。歩きやすさそのものが、遺産だった。
「ここ、跨いで。滑るから」
先頭のヨゾラの案内は、短くて、正確だった。白い木、二股の岩、小さな石積み。目印を確かめるたび、彼女の手は、崩れかけた石を積み直し、苔を払う。
もう癖と呼ぶのも違う気がした。これは手入れだ。番人の道は、いまも番人の家の子に、手入れされ続けている。
「……獣の気配が、まるでねえな」
最後尾の猟師さんが、低く言った。
足跡も、糞も、食み跡もない。森の縁ではあれだけ濃かった気配が、奥に向かうほど薄れていく。理屈はもう、僕たちは知っている。獣は、ここに居たくないのだ。僕たちはいま、獣が逃げ出してくる場所へ、逆向きに歩いている。
半分ほど来たところで、短い休憩を取った。
倒木に並んで腰を下ろし、おばさんの握り飯を分ける。塩が効いていて、まだほんのり温かい気さえした。気のせいだとわかっていても、その気のせいごと、力になる味だった。
「うめえな」
猟師さんが真顔で言い、ヨゾラが頷き、僕も頷いた。全会一致である。あの人の「晩ごはんの支度して、待ってるから」を思い出す。帰る理由は、多いほうがいい。握り飯一つぶん、僕たちの帰る理由は増えていた。
道中、僕はずっと、最後の一行を探していた。
口は歩きながらでも動く——猟師さんの言うとおり、僕は歩調に合わせて、小さく言葉を試し続けた。
封じよ。違う。鎮まれ。違う。眠れ。近い気がして、まだ遠い。
僕は何を命じたいんだろう。鎖に? それとも——鎖の内側の、あれに?
考えに沈みかけた僕の耳に、ヨゾラの声が届いた。
「ルナ」
すとん、と落ちる呼び方。顔を上げると、彼女は前を向いたまま、続けた。
「そろそろ。……上着、出して」
「え? 別に寒くは——」
言いかけて、僕は気づいた。
吐いた息が、白い。
一歩前までは、春の森だった。次の一歩で、空気が変わった。
肌を刺す冷たさ。足元の落ち葉に、うっすらと霜が降りている。頭上を見れば、この一帯だけ、梢が裸だった。
春のただなかに、ここだけ、冬が座り込んでいる。
「……これか」
猟師さんが、白い息と一緒に吐き出した。若い日にこの人が見て、引き返した光景。季節のない場所。その境界線を、僕たちはいま、跨いだのだ。
歩みを再開する前に、一度だけ、確かめておくことにした。囁き版の詠唱で右目を開く。半減の視界でも、視えたものは十分だった。
赤黒い筋は、この境界線の手前で、全部折り返している。獣は、冬の中に一歩も入っていない。
代わりに、境の内側には——金の筋が一本だけ。古い、あの通い跡だけが、霜の上をまっすぐ、奥へ延びていた。
番人だけが、ここから先を歩いてきたのだ。そしていま、その道を歩く三人のうち、番人の血を引くのは一人で、言葉を継ぐのは、僕だった。
再封印の儀を小声で済ませ、上着を羽織って、歩みを再開して、すぐだった。
——ルナ。
来た。
昼の光の中、裸の梢の向こうから、あの引き伸ばされた声。ヨゾラの声のかたちをした、偽物。
足を止めるな、と猟師さんが目で言う。歩く。返事をしない。振り向かない。決まりごとを、体に言い聞かせる。
——ヨゾラ。
今度は、僕の声で。隣のヨゾラの肩が、小さく揺れた。僕はすかさず、口を開いた。
「ヨゾラ」
すとん、と落として、本物を届ける。
「ん」
短い返事。それだけで、彼女の肩から強張りが抜ける。偽物が呼ぶたび、本物が呼び直す。約束は、ちゃんと武器になっていた。
——ルナ。ヨゾラ。ルナ。
声は、苛立つように交互を速めて、それから、ふっつりと止んだ。
「……俺は呼ばれねえのか。舐められたもんだ」
猟師さんの軽口に、少しだけ息がしやすくなる。でも、僕は気づいてしまっていた。呼ばれるのは、番人の血筋と、削られていない言葉の使い手だけ。あれは最初から、脅威になる者しか、呼んでいない。選ばれていることの意味を、冬の空気が、じわじわと肌に教えてくる。
声が止んだあとの静けさの中で、僕は、さっきから胸に引っかかっていたものの正体に、半歩だけ近づいた。
偽物がヨゾラを呼ぶたび、僕の中で、火みたいなものが立つ。恐怖じゃない。怒りに近い。
この子の声を勝手に使うな。この子の名前を勝手に呼ぶな。呼んで、連れて行こうとするな——誰のことも、二度と。
……そうか。
僕が命じたい相手は、鎖じゃない。鎖の内側の、あれ自身だ。あれに向かって、僕は何かを言いたいのだ。
まだ言葉の形にはならない。ならないけれど、方角だけは、わかった。祝詞の最後の一行は、たぶん、怒りと同じ方角にある。
沈黙の中を、どれくらい歩いただろう。
ふいに、ヨゾラの足が止まった。
「——着く」
彼女の声が、少しだけ掠れていた。ばあちゃんの供で通った日々の、その最後がいつだったのか、僕は聞いたことがない。ただ、この道の先に彼女が立つのは、一年ぶりのはずだった。
僕は、彼女の隣に並んだ。手袋越しに、指先だけ、彼女の手に触れさせる。ヨゾラは僕を見て、一つ頷いて、最後の茂みを分けた。
視界が、開けた。
裸の木々に囲まれた、白い霜の広場。その中央に、古い石の祠が立っていた。人の背丈ほどの、飾りの少ない、けれど嫌になるほど静かな佇まい。周りの空気が、陽の光ごと凍っているみたいに、動かない。
これが、扇の要。円の中心。すべての始まりの場所。
祝詞の最後の一行は、まだ、僕の中で決まっていない。決まる場所で決まる——だとしたら、ここが、その場所のはずだった。
一歩、踏み出しかけた僕の腕を、猟師さんの太い手が、無言で掴んで止めた。
見れば、髭の奥の目が、祠の一点に据えられて動かない。低い声が、白い息と一緒に落ちた。
「……戸が、開いてやがる」
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