第21話 誰の名も、二度と
僕たちは息を殺して、祠との距離を詰めた。
古い石の祠の、木の戸。それが内側から押されたように、指二本ぶんだけ、開いていた。隙間の奥は、昼の光が届かない暗さで、何も見えない。何も見えないのに、目を離すことができない。隙間そのものが、こちらを見ているような気がした。
「ばあちゃんのときは、閉まってた」
ヨゾラの声は、低く抑えられていた。
「いつも。……一度も、開いてるのを見たことない」
一年。番が絶えて、祝詞が絶えて、封の結び目が緩み続けた一年。その時間が、指二本ぶんの形で、目の前にあった。
猟師さんが、足元の小石を拾って、放った。小石は隙間の手前の霜の上を転がって、止まった。何も起きない。奥からは、音ひとつしない。
「……中に、居るのか」
「わからねえ。だが、決めるなら早くだ」
猟師さんは空を見た。日は、まだ高い。
「日のあるうちに唱えて、日のあるうちに森を出る。それだけは変えねえ。——嬢ちゃん、できるか」
最後の一行は、まだない。ないけれど、方角はもう、わかっている。怒りと同じ方角。決まる場所で決まる。ここが、その場所だ。
「……やります」
配置は、手短に決まった。猟師さんは広場の入り口で周囲の警戒。ヨゾラは、僕の隣。半歩後ろでも、離れた安全な場所でもなく、隣。聞く係の定位置だと、彼女は譲らなかった。
立ち位置につく前に、ヨゾラがぽつりと言った。
「帰ったら、包み焼き」
「……え?」
「蜂蜜、二壺ある。……作って」
こんなときに、と笑いかけて、わかった。こんなときだから、だ。帰ったらやることを、先に決めておく。帰る理由は、多いほうがいい。この子は、握り飯の意味を、ちゃんと知っている人だった。
「三回焼く。約束」
「ん」
祠の前に、立つ。
冷たい空気が、肺の底まで降りてくる。右手の包帯を、一度きつく握った。ポケットの中で、どんぐりが三つ、ころりと鳴った。
よし。全部、持ってきた。五年ぶんの言葉も、十九日ぶんの理由も。
息を、吸う。
——ルナ。
声が、来た。
今までで、いちばん近くで。耳のすぐ後ろ、ではない。もっと近い。頭の内側の、すぐ外側。膜一枚向こうで、ヨゾラの声のかたちをしたものが、僕を呼んでいる。
——ルナ、だめ。やめて。
言葉が、増えていた。名前だけじゃない。偽物のヨゾラが、偽物の心配で、僕を止めにくる。
——ルナちゃん。
息が、詰まった。
おばさんの声だった。井戸端の、あの、全身運動の感謝の人の声。ルナちゃん、帰っておいで。ルナちゃん、晩ごはんだよ。
偽物は、僕がこの村で呼ばれてきた名前を、呼ばれてきた声で、次々に投げてくる。
名を覚える森。覚えられていたのは、僕の名前だけじゃない。僕を呼ぶ、みんなの声ごとだ。
「ルナ」
すとん、と落ちる声が、右隣から届いた。
本物。振り向かなくても、わかる。世界中の偽物と、この一つだけが、違う。
「聞いてる。——始めて」
僕は、口を開いた。
「聞け、月鎖」
最初の呼びかけが、冬の空気を割った。祠の奥で、何かが、身じろぎした気がした。
「月の光が編みし、千年の白銀の鎖よ。星の生まれる前より、終の夜の後まで、巡るものすべての理を繋ぎ止める、不朽の環よ」
声に、熱が乗っていく。恥ずかしさは、とうに置いてきた。これは僕の言葉だ。僕が編んで、僕だけが唱えられる、僕の祝詞だ。
——ルナ。ルナちゃん。ルナ様。ルナ。
声の乱打が、詠唱に割り込んでくる。止めるな。止めたら、不発だ。この祝詞は、一言残らず言い切るまで、終われない。
僕の口は止まらない。止まらないということは——隣で何が起きても、僕は詠唱を捨てない限り、助けられないということだ。
あれは、それを知っていた。
——ヨゾラ。
僕の声が、僕じゃない場所から、彼女を呼んだ。
——ヨゾラ、おいで。こっち。
視界の端で、ヨゾラの肩が揺れた。偽物の僕が、甘い声で、手招きをしている。彼女の足が、霜を踏んで、半歩——
動かなかった。
「……聞いてるから」
ヨゾラは、その場に、根を張るみたいに立っていた。目を閉じて、両手を固く組んで、耳だけを、僕に向けて。
「本物は、いま、祝詞を唱えてる。私は、それを聞いてる。——聞く係だから」
偽物がどれだけ甘く呼んでも、彼女の耳は、いちばん近くで本物を聞いている。錨みたいに。灯台みたいに。聞く係は、飾りの約束じゃなかった。彼女は自分の役目で、自分を繋ぎ止めている。
だったら、僕の役目は、唱え続けることだ。
「穿たれた楔を打ち直し、解けた結び目を編み直せ。軋む戸を閉ざし、冬の玉座に鍵をかけろ」
言葉を継ぐごとに、変化は目に見え始めていた。祠を囲む霜の上に、細い光の線が、一本、また一本と浮かんでくる。月の色をした、鎖の輪郭。僕の来歴が、その一輪ずつに、かたちを与えていく。冷え切った広場の空気が、詠唱の通り道だけ、かすかに温い。
祠の隙間の奥で、暗闇が、揺れた。
——ルナ。ヨゾラ。ルナ。ヨゾラ。
声が、悲鳴じみて速くなる。効いているのだ。僕の言葉が、届いているのだ。
来歴は語り終えた。残るは、最後の一行。命令の言葉。
ここまで来ても、用意した言葉は、ない。
でも、もう探さなかった。
目の前で、あれは、ヨゾラを呼んでいる。僕の声で。母を連れて行った、あの夜と同じやり方で。この子の隣から、また誰かを、連れて行こうとしている。
胸の奥で、火が立った。怒りと同じ方角から、言葉が、来た。
「——黙れ、名喰い!!」
息を吸い切って、僕は、五年ぶんの本気で叩きつけた。
「お前はもう、誰の名も——二度と、呼ぶな!!」
言い切った、その瞬間。
世界から、音が消えた。
浮かんでいた光の線が、一斉に立ち上がる。月の色をした鎖が、霜の広場を走り、うねり、絡み合いながら、祠へと殺到した。一巻き。二巻き。石の祠ごと、開いた戸ごと、光の鎖が締め上げていく。
——ルナ……ヨゾ、ラ……
声が、鎖の内側で、引き伸ばされながら細くなる。指二本ぶんの隙間が、軋みながら、少しずつ、少しずつ、狭まって——
音を立てて、戸が、閉じた。
最後の鎖が、戸の上で結び目のかたちに絡んで、鍵をかけるみたいに、かちりと光った。
静寂が、降りた。
冬の広場の真ん中で、月色の鎖に巻かれた祠だけが、ほのかに光っている。声は、もう聞こえない。何も、聞こえない。自分の心臓の音と、隣の人の呼吸だけが、世界に残った音のすべてだった。
「……やっ、た……?」
膝から、力が抜けた。崩れかけた僕の体を、横から伸びた腕が、しっかりと受け止めた。銀の髪が、頬に触れる。あたたかい。生きて、二人とも、ここにいる。
——そのはず、だった。
ヨゾラの肩越しに見えた、戸の上の結び目。月色に光るその結びが、一度だけ、脈を打つように、翳った。
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