第22話 全盛期召喚《カラコンそうちゃく》
ぴし、と音がした。
足元の霜が、割れた音だった。
ヨゾラの腕の中で、僕は顔を上げた。祠は、月色の鎖に巻かれたまま、静かに光っている。結び目も、戸も、そのまま。封は、保っている。
なのに——広場の寒さが、一段、深くなっていた。息が白いどころではない。吸い込むと、喉の内側が痛い。
体が、鉛だった。月鎖の祝詞は、僕の底に残っていたものを、根こそぎ持っていった。結界一晩ぶんの比ではない。立とうとした膝が、霜の上で滑る。それでも、立たなければいけない空気だけは、肌でわかった。
「立てるか!!」
猟師さんの声が飛んだ。入り口の位置から、弓に矢をつがえて、広場の一点を睨んでいる。その視線の先で——霜が、沸いていた。
地面の白が、ぼこりと盛り上がり、崩れ、また盛り上がる。その上の空気が、あの、輪郭だけの揺らぎになって、立ち上がっていく。今までで、いちばん濃く。いちばん、大きく。
祠の、外で。
「……なんで」
封じたのに。戸は閉じたのに。掠れた僕の疑問に、答えたのは猟師さんだった。
「戸は一年、開いてたんだ!! 中身が染み出してたんだよ——全部じゃねえ、欠片がな!!」
血の気が引いた。
そうか。そういう、ことか。
夜ごと家まで来た声。森の縁の揺らぎ。膜の外を回っていた、あれ。封の内から漏れる声は細いはずなのに、あんなに近くで聞こえた理由。
——漏れていたんじゃない。出て、いたんだ。開いた戸から、一年かけて、染み出した欠片が。
そして僕は今、その欠片の帰る家に、鍵をかけた。
揺らぎが、膨れた。
音のない絶叫、としか言えないものが、広場の空気を殴った。鼓膜ではなく、頭の芯に直接くる圧。締め出された欠片の、行き場のない飢えと怒りが、冬を尖らせて、こちらに向かってくる。
「散れ!!」
猟師さんの矢が飛んだ。揺らぎを、素通りした。舌打ちが聞こえる。
実体がない。刃も矢も、通らない相手。だったら、通るのは——言葉だけだ。
「ヨゾラ、離れて。……やる」
立ち上がる。膝が笑っている。月鎖で、体の底が空っぽだった。それでも、右手の包帯に左手を添えて、僕は息を吸った。
「我が右腕に眠りし《紅蓮の獣》よ。千年の封を解き、いまこそ顕現せよ——!!」
言い切った。右手に、熱が——
来ない。
いや、来た。来たけれど、ろうそく一本ぶんの熱だ。手のひらの上で、小さな火が、頼りなく揺れて、冬の空気に食われて、消えた。
「……そんな」
言い切ったのに。本気だったのに。違う。わかっている。
本気の火を焚くための薪が、僕の中に、もう残っていないのだ。月鎖に、全部くべた。
詠唱は口だけじゃ立たない。なりきりの熱、体の芯の火力——それが、底をついている。
揺らぎが、迫る。凍った風が刃みたいに頬を裂いて、細い痛みが走った。
「松明だ!!」
猟師さんが吠えた。油布を巻いた枝に、火口の火が移る。燃え上がった炎を、猟師さんは揺らぎとの間に突き出した。
揺らぎが、初めて、退いた。
「火は嫌いか、冬の化け物!! ——嬢ちゃん!!」
炎を振り回しながら、猟師さんが叫ぶ。
「一分だ!! 言ったろう、その一分は俺が稼ぐ!! 次の手があるなら出せ!!」
次の手。
あった。荷物のいちばん上に、一つだけ。
僕は荷に飛びついて、小さな固いケースを掴み出した。蓋を開ける。赤が二枚、乾いた光を返す。保存液もない、五年ものの、邪眼のカラコン。
目に入れていいものでは、断じてない。知るか。
「ヨゾラ!! 手伝って——鏡がない!!」
言い終わる前に、彼女は僕の前にいた。状況を聞かない。用途も聞かない。両手で僕の頬を挟んで、固定して、短く言った。
「動かないで」
耳かきと、同じ声だった。こんなときなのに、少しだけ、笑いそうになった。冷たい指が、僕の右のまぶたをそっと開く。震えない手が、乾いた赤いレンズを、僕の目に載せた。
痛い。乾いて、目に張りつく。眼球がひりつく。——知るか、そんなこと。
「……これ、何か聞かないの」
「あとで聞く。今は、あなたが要るって言った。それで足りる」
信頼の形をした言葉が、痛む目の奥に、じんと沁みた。
目を閉じて、開く。
世界の右半分に、赤い靄がかかった。あの頃、鏡の中に毎晩いた僕の目。左は黒、右は赤。左右で色の違う目をした、五年前の、痛くて、無敵だった僕。
包帯。赤い右目。編み込んだ髪。異世界の霜の上に、僕の全盛期が、揃ってしまった。
「……ふ、くくっ」
喉の奥から、勝手に、あの笑いが出た。
いいだろう。見せてやる。恥もろとも、全部だ。
「——もう一度だ。我が右腕に眠りし《紅蓮の獣》よ」
声が、変わったのが自分でわかった。底をついたはずの体の芯に、赤い目が、火を運んでくる。なりきりじゃない。今の僕は、なっている。
「千年の封を解き、灰燼の檻を蹴り破り——いまこそ、顕現せよ!!」
右腕が、燃えた。
熱じゃない。炎そのものが、右手から迸って、霜の上に流れ落ち、うずくまり——立ち上がった。四つの足。燃える鬣。犬より、熊より大きい、炎でできた獣のかたち。
紅蓮の獣が、初めて、消えずにそこにいた。
今までのあれは、獣のかたちをした一撃だった。放てば、当たって、燃え尽きて終わり。
でも、いまは違う。立っている。とどまっている。燃える体で息をするみたいに揺れながら、僕の次の言葉を、待っている。
中学二年の夜、ノートの隅に描いた姿、そのままだった。設定画のとおりの巻き角。設定画のとおりの、三日月型の瞳孔。誰にも見せたことのない僕の獣が、誰の目にも見える炎になって、僕の前に立っている。
泣きそうだった。こんな場面でなければ、たぶん泣いていた。
「……い、けえええっ!!」
獣が、跳んだ。
炎と冬が、広場の真ん中でぶつかった。揺らぎが軋み、霜が蒸気になって噴き上がり、白一色だった世界に、オレンジの光が咲く。押している。僕の五年が、あの欠片を、押している。
揺らぎが、崩れながら、後退する。もう一押し。もう一言で——
そのとき、だった。
「——ヨゾラ」
声がした。
僕の声じゃない。ヨゾラの声でもない。聞いたことのない、大人の女の人の、やわらかい声。
隣で、ヨゾラの息が、止まった。
振り向いた彼女の顔から、色が、抜け落ちていた。藍色の目が、揺らぎを——その奥を、見開いたまま、動かない。唇が、震えながら、開いた。
「……かあ、さん……?」
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