第23話 彼女が、呼ぶ
ヨゾラの足が、一歩、前に出た。
「——ヨゾラ。おいで。会いたかった」
揺らぎの奥から、あの声が続く。やわらかくて、あたたかい、大人の女の人の声。嘘みたいに優しい声。その声が呼ぶたび、ヨゾラの体から、意思の力が一枚ずつ剥がれていくのが、隣にいてわかった。
「ヨゾラ!!」
僕は呼んだ。すとん、と落として。本物の呼び方で。
彼女の足が、止まる——止まった。止まったのに、次の呼び声で、また半歩、進んだ。
「だめだ、嬢ちゃん!! 聞くな!!」
猟師さんが松明を振るう。紅蓮の獣が揺らぎに牙を立てる。欠片は削れて、痩せて、それでも——声だけが、無傷で届き続ける。炎は形を焼けても、声を焼けない。
そして僕は気づいてしまった。
あの声は、真似じゃない。
偽の僕、偽のヨゾラ、偽のおばさん。あれらは全部、聞き覚えた声の写しだった。
でも、この声は違う。写しにしては、細部が生きすぎている。
呼吸の癖。語尾のやわらかさ。娘を呼ぶときにだけ出る、声の甘さ。
——持って、いるんだ。
名喰いは、応えた者を喰う。喰った人の声を、あれは、中に持っている。写しているんじゃない。十年前に呑み込んだ本物の声で、いま、娘を呼んでいる。
「ヨゾラ、聞いて!! あれは偽物——」
言いかけて、僕は言葉を失った。
振り向いたヨゾラの顔は、泣いていた。泣きながら、笑っていた。
「……わかってる」
掠れた声で、彼女は言った。
「偽物なのは、わかってる。呼び方が違うのも、わかってる。でも、ルナ。……声だけは、本物なの」
ああ。
そうか。これは、識別の問題じゃないんだ。
すとんと落ちる呼び方の約束は、偽物を見分けるための装置だった。でも彼女は見分けた上で、進もうとしている。偽物の呼びかけの中の、本物の声に。十年間、帰り道を直し続けた人の声に。
会いたかったのは、彼女のほうなのだ。ずっと。ずっと。
見分ける力は、望みには勝てない。
「会いたい、って——」
ヨゾラの足が、また、霜を踏んだ。
「思っちゃ、だめ……?」
だめだ、と言えなかった。言えるわけがなかった。この子が、どんな十年を歩いてきたか、僕は知ってしまっている。母の帰り道の、苔を払い続けた手を、知ってしまっている。
でも。
その先にあるのは、母じゃない。喰われた声を囮にした、口を開けた冬だ。
体が、勝手に動いていた。理屈より先に、僕は、彼女の前に回り込んでいた。揺らぎと彼女の間に、立った。左の黒い目と、右の赤い目で、まっすぐに彼女を見た。
方法は、一つしか思いつかなかった。
あの声より強いものを、僕は一つしか、持っていなかった。
「——ヨゾラ!! 僕の名前を、呼んで!!」
藍色の目が、見開かれた。
「僕の、本当の名前!! 熱のとき、聞いたでしょ!! 途中まで!!」
「で、でも、あなた——」
呼ばない、と彼女は言った。あの朝、指切りみたいに固い声で。呼ばない。あなたがいいって言うまで。約束を、この子はずっと、守り続けてきた。
だから、今だ。
「いい!! いま、いいって言ってる!!」
息を吸い切って、僕は叫んだ。ここが、決まる場所だった。
まことの名を、あれの前で明かすな——ばあちゃんの警告が、頭の隅で鳴った。わかってる。名は、鍵にもなる。
でも、あなたの帳面には、もう半分も書いてあった。封にも、なるんだ。だったら僕は、鍵じゃなく、封の側に賭ける。
「僕の名前は——結月!! 結ぶ月って書いて、結月!! それが、封印したはずの、僕の本当の名前だ!!」
言えた。
十九日間、この世界の誰にも明かさなかった名前。痛かったのは、名前じゃない。名前ごと抱えていた、あの五年間だ。
だから卒業の儀式で、僕は魔法陣の真ん中にこの名前を書いた。あの頃の自分ごと、終わらせるつもりで。
——その名前を僕はいま、冬のど真ん中で、いちばん届けたい人に向かって、叫んでいた。
「呼ばれて振り向くなって、言われてるけど!! あれは偽物の話だ!! 本物は——本物にだけは、振り向いていい!!」
だから、と僕は両手を広げた。
「あっちの声に応える前に!! 一回だけ、僕を呼んで!! ——呼ぶ側に、なって!!」
呼ばれる者は、連れて行かれる。なら、呼ぶ者になればいい。名喰いの理屈の、外側に立てばいい。あれは呼ぶことしかできない。呼び返されたことなんて、一度もないはずだ。
——ヨゾラ。おいで。ヨゾラ。
母の声が、急くように重なる。ヨゾラの目が、揺らぎと僕の間を、往復する。泣き濡れた藍色が、迷って、迷って、迷って——
閉じた。
開いた。
僕を、見た。
「…………結月」
すとん、と。
世界でいちばん綺麗な落ち方で、僕の名前が、落ちてきた。
瞬間。
胸の真ん中で、何かが抜けた。
ずっと刺さっていた、小さな棘。ルナちゃん、と呼ばれるたびに疼いた、偽名の痛み。それが、音もなく抜けて、抜けた穴に、あたたかいものが流れ込んでくる。名前を呼ばれるって、こういうことだったのか。本当の名前で、本当に呼ばれるって。
封印したはずの名前を、彼女が呼んだ。
世界は——変わらなかった。ただ、僕だけが、変わった。この世界に、僕がちゃんと居る。結月として、ここに居ていい。そう、彼女の声が、僕をこの霜の上に、結んでくれた。
名は、封にもなる。
体の底から、火が噴き上がった。月鎖で空にしたはずの場所に、彼女の声が、薪を無限にくべてくる。
「……ふ、はは。すごいな、これ」
右手を、上げる。紅蓮の獣が、僕の火に呼応して、二回りも大きく燃え上がった。
「行け、紅蓮の獣——」
揺らぎが、母の声のかたちのまま、こちらに殺到してくる。もう遅い。
「その冬を、喰らい尽くせ!!」
炎の顎が、開いた。
喰う者が、喰われた。断末魔さえ、声にならなかった。欠片は炎の中で輪郭を失い、ほどけて、冬の空気ごと、燃え尽きていった。
静かになった広場に、ぱき、ぱき、と小さな音が続いた。
霜の、解ける音だった。
裸の梢の先で、氷の粒が水になって、光りながら落ちていく。何十年も座り込んでいた冬が、腰を上げ始めていた。
膝から崩れたのは、今度は二人同時だった。霜の解けかけた地面に、並んでへたり込む。猟師さんが松明を下ろして、長い長い息を吐くのが聞こえた。
「……呼んじゃった」
隣で、ヨゾラが、ぽつりと言った。
「呼んでって言ったので」
「ん。……結月」
「っ、は、はい」
不意打ちで呼ばないでほしい。心臓に悪い。彼女は僕の顔を見て、泣いた跡のある目で、少しだけ笑った。
「いい名前。——今度は、ちゃんと言える。いい名前」
初めて会った、あの川辺の日と、同じ言葉。でも今度のそれは、作りものの名前にじゃなく、僕に、まっすぐ届いた。
繋いだ手の上に、何十年ぶりかの春の光が、降り始めていた。
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