第24話 凱旋《ただいま》
最初に、鳥が鳴いた。
帰り道、森の縁が近づいてきたあたりだった。頭上の梢で、短い声が一つ。少し先で、別の一つが、それに応えた。
三人とも、足を止めて上を見た。ずっと留守だった森に、住人が帰り始めている。猟師さんが「……早えな、耳ざとい奴らだ」と笑った。初めて見る類いの笑い方だった。
季節の境も、行きとは違っていた。肌を刺した冬の空気は、角の取れた涼しさに変わっている。消えてはいない。祠の周りの冬は、たぶんこれからも、あの広場に座り続ける。でも、もう刃じゃない。ただの、静かな冷たさだった。
「……ところで、右目。いつまで赤いの」
並んで歩くヨゾラが、僕の顔を覗き込んで言った。
「外すタイミングを、失いました」
入れるときも激痛だった乾燥レンズである。外すときの激痛が容易に想像できて、僕は決断を先送りにしていた。ヨゾラは真顔で「家に、ばあちゃんの目洗いの薬草がある」と言った。番人の家、万能すぎる。
境を抜けてしばらく歩いた頃、ヨゾラが、ぽつりと言った。
「ばあちゃんの帳面に、書いてあった」
前を向いたままの、静かな声だった。
「最後のページ。……『泣くのは、生きとる者の仕事だ』って。だから私、今日、ちゃんと仕事した」
泣き腫らした目のまま、彼女は少しだけ笑った。母の声は、囮だった。でも、声そのものは本物だった。それが今もあの祠の中にあるという事実を、彼女がこの先どう抱えていくのか、僕にはまだわからない。わからないから、今は隣を歩く。歩きながら、袖と袖が触れる距離を、保つ。
森を抜ける手前で、猟師さんが足を止めた。
「なあ、嬢ちゃん」
「はい」
「俺は、何も聞いてねえ」
一瞬、意味がわからなかった。猟師さんは前を向いたまま、ぶっきらぼうに続けた。
「名前の話だ。あの場で聞いたもんは、森に置いてきた。村で言いふらす類いのもんじゃねえだろう、ありゃあ」
「……ありがとう、ございます」
「ただし」
猟師さんは、そこで初めてこちらを見た。
「イワネだ」
「え?」
「俺の名だ。ガキの時分から、岩みてえに動かねえと言われてな。……嬢ちゃんばっかり名乗るのは、不公平だろう」
熊みたいな人の、岩みたいな名前。でも僕はもう知っている。この人は、動かない人じゃない。動かないでいてくれる人だ。稼ぐと言った一分を、本当に稼ぐ人だ。
「イワネさん。……お世話に、なりました」
「まだ終わってねえよ。森を出るまでが見回りだ」
遠足の先生みたいなことを言って、イワネさんは歩き出した。
村の入り口が見えたとき、畑の見張り台の上で、子どもが跳びはねた。
「かえってきたー!!」
その声は、僕たちより速く村を一周した。おばさんが前掛けで手を拭きながら走ってきて、僕とヨゾラを、まとめて抱きしめた。ぎゅうっと。骨の軋むやつ。
「おかえり!! ほら、湯気の立つうちに!! 晩ごはん!!」
約束は、その日のうちに果たされた。具がごろごろ入った汁と、焼きたてのパン。生きて帰った体に、塩気と湯気が染み渡る。食卓の隅で、子どもたちがどんぐりの成果を聞きに来た。
「おまもり、きいた?」
「効いた。ちゃんと、開眼した」
嘘は言っていない。右目は今日、二重の意味で開眼していた。子どもたちは大喜びで、新しいどんぐりに詠唱を吹き込み始めた。村の未来が、少し心配である。
長老には、ありのままを話した。封じ直したこと。外に出ていた欠片を、焼き尽くしたこと。祠の戸が、いまは月色の鎖で閉じていること。長老は囲炉裏の火を長いこと見つめて、それから、僕たちに向かって、ゆっくりと頭を下げた。
「……ようやった。ようやった、の」
頭を上げた長老に、僕は帳面で知った番人の務めを話した。封は、締め直し続けなければ、また緩む。月のうち幾度か、祠の前で、祝詞を。
「僕が、通います。言葉を、継いだので」
「道の案内は、私」
隣で、ヨゾラが言った。当然、という顔だった。長老は僕たちを順番に見て、皺の奥の目を細めた。
「番は——絶えとらんかったのう」
囲炉裏の火が、ぱちりと鳴った。婆様の帳面は、いまヨゾラの家の、いちばんいい棚にある。
その夜。
夕食の片付けを終えて、僕は習慣どおり、家の裏に出た。両手を広げて、息を吸って——止まった。
集え、月影に。その続きが、口の中で、行き場をなくす。
……張らなくて、いいんだ。
欠片は焼けた。封は締まった。夜の声は、もう来ない。毎晩の結界は、今夜から、いらない。頭ではわかっていたのに、体のほうがまだ、夜を警戒していた。僕は構えを解いて、ただの夜空を見上げた。月が、綺麗だった。それだけの夜が、帰ってきたのだ。
「張らないの?」
戸口から、ヨゾラが見ていた。
「張らなくて、よくなったので」
「ん。……変な感じ」
「変な感じ」
静けさの意味が、昨日までと違う。怖い静けさじゃなく、ただの、夜の静けさ。二人でしばらく、それを聞いた。
カラコンは、寝る前に外した。ばあちゃんの薬草の目洗いは沁みたが、五年ものの乾燥レンズを外す激痛に比べれば子守唄だった。ケースに戻された赤い二枚を、ヨゾラは興味深そうに眺めて、「また要るとき、私が入れる係」と言った。係が、また一つ増えた。
「包み焼きは、明日ね。一回目」
「ん。蜂蜜、開ける。……専用のほう」
専用枠の初出動である。光栄なことだった。
寝る前、暖炉の残り火を落としながら、ヨゾラが言った。
「決めたことが、ある」
「はい」
「みんなの前では、ルナって呼ぶ。今までどおり」
「うん」
「こっちの名前は」
彼女は火かき棒を置いて、まっすぐ、こちらを向いた。
「二人のときだけ。——いい?」
いいも何もなかった。頷くしかなかった。頷いた僕に、ヨゾラは満足そうに「ん」と言って、それから、確かめるみたいに一回だけ、呼んだ。
「おやすみ、結月」
すとん、と落ちる、二人だけの呼び方で。
……心臓が、いくつあっても足りない。
布団に入って、僕は暗い天井を見ていた。
五年前の僕へ。君の名前は、無事だ。無事どころか、いまは世界でいちばん、大事にされている。
誰の声もしない夜だった。ただ静かなだけの、最高の夜だった。
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