第25話 蜜月契約《つつみやきいっかいめ》
「——教えて」
朝ごはんの片付けが終わるなり、ヨゾラがそう言った。
窓の外は、いい天気だった。結界を張らない、初めての夜が明けて、村には春の続きが戻ってきている。井戸端に人が集まり、畑に鍬の音が響き、見回りは昼の一組だけに減った。
あの声のことを、村はもう、過ぎた冬の話みたいに語り始めている。早い。早いけれど、たぶん、それでいい。日常の回復力は、こういうとき頼もしい。
両手に抱えているのは、例の蜂蜜の壺。料理用ではない。お菓子専用のほう。昨夜、開けると宣言された、あの専用枠である。
「包み焼きの、作り方。約束の一回目、今日でしょ」
「作るのは僕のはずでは!?」
「作れる人が二人いると、回数が増える」
真顔の算数だった。反論の余地が、どこにもなかった。
というわけで、本日の台所は調理実習の場となった。先生、僕。生徒、ヨゾラ。教科書はなし。
全部、この頭の中にある。鍵っ子歴十年は、こういうとき強い。
最初の事件は、林檎の皮むきで起きた。
「ヨゾラ。それ、握り方が鉈」
「……包丁も、刃物」
「思想が猟師なんだよ」
イワネさん仕込みかと思うような、力強い一刀両断。芯ごと真っ二つになった林檎を前に、ヨゾラは無言で二個目に手を伸ばした。負けず嫌いなのは、知っている。
僕は横から手を添えて、刃の角度をそっと直した。指先が触れて、二人とも、ちょっとだけ黙る。
……こういうのは、教える側が動揺したら負けである。主に僕が。
生地を伸ばして、林檎を並べて、いよいよ蜂蜜の出番になった。
ヨゾラが、壺の蓋に手をかける。ひと呼吸。開ける。琥珀色が、とろりと光った。
「……開けちゃった」
「開けるための蜂蜜です」
「ん。でも、少し、もったいない」
専用枠の初出動は、儀式のように厳かだった。木の匙ですくって、林檎の上へ、ゆっくり回しかける。最後に匙へ残ったひとすくいを、ヨゾラは迷いなく口に運んだ。行儀が悪い。行儀が悪いが、その顔があまりに幸せそうなので、先生は見なかったことにした。
「灯れ。——弱く」
竈の火が、言われたとおりの大きさで灯る。火加減大臣の腕は今日も確かで、僕が「そろそろ強めに」と言うより先に、火はもう強くなっていた。阿吽である。最初のときは一つずつ指示していたのに、今はもう、先回りされている。
焼き上がりを待つ間、戸口の外から、子どもたちの歌が聞こえてきた。
「もりのこえは、しずかになった!」
「ばんにんさまが、いるからだ!」
……歌詞が、変わっている。昨日の今日で、もう新しい節がついていた。番人様というのがたぶん僕のことで、面映ゆいような、背筋が伸びるような、変な心地がする。
長老のお触れで、森は縁まで解禁になった。奥は、僕とヨゾラの領分。月に幾度かの祠通いは、次の月の満ち欠けの頃から始める予定だ。
待ち時間に、僕は机の隅の紙束を引き寄せた。
祝詞の控えである。月鎖の全文と、唱えた日付と、そのとき視えた封の様子。ばあちゃんの帳面に倣って、僕も僕の引き継ぎ書を書き始めることにしたのだ。宛名はまだ書いていない。『言葉を継ぐ者へ』——あの宛名の重さを知った今は、一行目に何を書くべきか、ゆっくり考えたかった。
「私も、書く」
覗き込んだヨゾラが言った。
「道のこと。目印と、季節ごとの歩き方。……ばあちゃんに教わったこと、全部」
番人の引き継ぎ書は、今代から二冊組になるらしい。言葉の係と、道の係。分業である。
甘い匂いに釣られたのか、おばさんが顔を出した。
「ルナちゃん、朝からいい匂いさせて!」
ルナちゃん。
——痛く、なかった。
胸の奥の、あの小さな棘。偽物の名前で呼ばれるたびに疼いた、あれが、もうどこにもない。ルナは、偽名じゃなくなったのだ。結月の隣に並んだ、もう一つの、本当の名前。だから今は、どちらで呼ばれても、ちゃんと僕に届く。
「はい! 焼けたら、お裾分けします!」
返事の声が、自分でも驚くくらい、軽かった。
おばさんを見送ったところで、隣のヨゾラが、小さく「……ゆ」と言いかけて、口を押さえた。
「…………ルナ。お皿、出して」
「っ、はい!」
人前ルール、初日にして決壊寸前である。セーフはセーフだった。セーフだったのに、僕の心臓のほうが先に走り出していた。
包み焼きは、上手に焼けた。
割ると湯気が立ちのぼって、蜂蜜と林檎の匂いが、台所いっぱいに広がる。ヨゾラは自分で焼いた一つを両手で持って、ふうふうして、一口。藍色の目が、ゆっくり細くなった。
「……甘い」
「甘いね」
「ん。——生きて帰ると、甘い」
あの日と同じお菓子のはずなのに、味が違った。約束の味がする。三回のうちの、一回目の味。窓の外では春の風が吹いていて、森は静かで、隣には、自分で焼いた包み焼きに目を細める女の子がいる。守りたかったものが全部、この台所に揃っていた。
三つ目の包み焼きは、布に包んだ。
「イワネさんに?」
「ん。……甘いの、食べる顔が見たい」
あの熊みたいな人が包み焼きを持て余す図を想像して、二人で少し笑った。お裾分けの列には、おばさんと、長老と、どんぐりの子どもたちも並ぶ予定である。焼く回数は、当分減りそうにない。
「あと、二回だね」
指を二本立てて言うと、ヨゾラは、ゆっくり首を振った。
「二回じゃ、足りない」
「え。約束は、三回……」
「三回焼いたら、次の約束をする。焼き終わったら、その次も」
壺の中の琥珀色を見つめて、それから僕を見て、彼女は言った。当然のことを言う、いつもの顔で。
「——ずっと食べるから。急がなくて、いい」
ずっと、という言葉が、蜂蜜より甘く聞こえた。
約束が、増えていく。呼び方の約束。包み焼きの約束。月に幾度かの、祠への道。この世界で僕が結んだものの数だけ、僕はここに、結ばれていく。
結月。結ぶ月。……我ながら、いい名前である。五年越しに、ようやく本気でそう思えた。
二回目の約束のために、僕は籠から、新しい林檎を一つ手に取った。
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