第26話 時輪初動《ゆうだちダッシュ》
月が、細くなった。
夜ごとに欠けていく月を、僕は毎晩、窓から確かめるようになっていた。理由は風流ではない。あれは僕たちの、勤務の暦である。
「次の満ち欠けの頃」と決めた、祠通いの最初の日が来たのだ。
包み焼きの約束は、二回目まで進んだ。村の暮らしは静かで、夜は誰の声もしなくて、僕の右目はすっかり黒に戻っている。そういう日々の先に、今日がある。戦いに行くのではない。務めに、行くのだ。
支度は、前とは比べものにならないほど軽かった。日帰りの水と昼ごはん、ヨゾラの道の書、僕の祝詞の控え。鉈は今回も持たされた。お守り枠である。
森の縁まで、イワネさんが送ってくれた。
「縁までだ。中は、あんたらの領分だろう」
罠の見回りのついで、という顔をして、明らかについでではない時刻に立っていた人は、それだけ言って森の外に残った。頭を下げて、僕たちは番人の道に入った。
森は、変わっていた。
留守だった森に、住人が戻っている。頭上に鳥の声があり、下草に足跡があり、ヨゾラいわく「罠にも、まともに獲物がかかり始めた」らしい。イワネさん情報である。
歩きながら、ヨゾラは時々足を止めて、帳面に書きつけをした。道の書だ。白い木、二股の岩、季節ごとの目印。ばあちゃんに教わったことが、彼女の字で、次の誰かへ残っていく。
そして、森の中は、二人きりだった。
「結月」
「はいっ」
「……呼んだだけ」
人前ではルナ、二人のときだけ結月。その決まりでいくと、この森はいま、世界でいちばん広い「二人のとき」である。ヨゾラはそれに気づいてから、目印を確かめるたび、練習みたいに僕を呼んだ。
結月、そこの石。結月、ここ滑る。呼ばれるたびに背筋の伸びる僕は当分、この森で気を抜けそうにない。
怖い声に呼ばれ続けた森が、いちばん好きな声に呼ばれる森になっている。世界の変わり方として、上出来すぎる部類だと思う。
季節の境は、まだそこにあった。
跨ぐと、空気がひやりとする。でも、それだけだ。刃だった冷たさは、蔵の中みたいな、ただの涼しさになっている。裸だった梢に固い芽がついているのを、ヨゾラが見つけた。何十年も冬だった場所に、遅い春が、追いつこうとしている。
祠は、静かだった。
月色の鎖は、あの日のまま祠を巻いている。ただ、少しだけ光が薄い。囁き版の魔眼で確かめると、結び目の光が、ひと月ぶんだけ細くなっていた。
それから、霜の上の金の筋。古い一本の隣に、真新しい筋が三本、祠まで延びている。僕たちと、イワネさんの、前回の分だ。
絶えかけていた通行記録が、また動き始めている。……なるほど。これを締め直しに、通うのか。緩み切ってから封じ直すのではなく、緩む前に手を入れる。ばあちゃんたちが何十年も続けてきたのは、こういう地味で偉大な仕事だった。
祝詞の前に、ヨゾラが祠へ進み出た。
両手を、静かに合わせる。目を閉じて、しばらく、そのまま。
何に手を合わせたのか、僕は聞かなかった。この祠の中には、封じられた冬と——十年前に呑まれた、本物の声がある。彼女は会いに来たのだ。たぶんこれからも、務めのたびに。番人の仕事に、彼女だけの意味が、ひとつ増えた。
目を開けて、ヨゾラは僕の隣に戻った。聞く係の、定位置に。
「——お願いします、番人さま」
「任された」
息を吸って、僕は二度目の祝詞を唱えた。聞け、月鎖。月の光が編みし、千年の白銀の鎖よ——呼びかけて、来歴を語り、締め直せと命じる。
二度目の言葉は、初めてのときより静かに、深く通った。叫ばなくても、届く。務めの祝詞とは、そういうものらしい。
唱え終わると、結び目の光が、満ちた。研ぎ直した刃物みたいに、鎖の輪郭が細く輝き直す。膝は、笑わなかった。
緩み切った封を締めるのが井戸の底まで汲む仕事なら、締め直しは、汲んだ水を注ぎ足すくらいのものらしい。それでも体はずしりと重い。帰りのぶんの力は、ちゃんと勘定に入れておくべきだった。
なぜなら。
帰り道の半ば、森の縁が見えてきたあたりで、空が急に暗くなったからである。
ぽつ、と首筋に冷たいものが当たった。
「……結月」
「言わないで」
「夕立」
言われてしまった。山の向こうから、雨音の壁が、こちらへ歩いてくる。濡れて帰った僕がどうなるかは、この世界で実証済みである。日も浅い頃、律儀に風邪をひいた前科がある。あの看病をもう一度させるのは、絶対に、だめだ。
「ヨゾラ、手!!」
「?」
「いいから!! ——走るよ!!」
彼女の手を掴んで、僕は胸の内の武器庫から、いちばん軽い一枚を抜いた。
「回れ、時計仕掛けの黙示録。時の理よ、我が名のもとに傅け——」
「え、なに、長い」
「——第一の針は、疾れ。《一ノ刻・疾走》!!」
言い切った瞬間、世界が、ゆっくりになった。
正確には、僕たちが速くなった。落ちてくる雨粒が、止まって見えるほど。繋いだ手ごと、地面を蹴るたび、景色が飛ぶ。雨の壁の一歩先を、僕たちは笑いながら走り抜けた。
家の戸口に飛び込むのと、本降りが屋根を叩き始めるのは、ほとんど同時だった。
「……っは、はは!! セーフ!!」
「……すごい」
土間に転がり込んで、二人で息を切らして笑った。ヨゾラの目が、まだ丸い。
不思議なことに、疲れは、ほとんど増えていなかった。祝詞のあとの重い体でも、あの一枚は切れた。針が浅いぶん、軽いのだ。
……逆に言えば、深い針は、それだけ重いということでもある。十二枚目の重さを想像しかけて、やめた。今日は、務めと夕立の日だ。
「いまの、初めて聞いた。詠唱」
「新シリーズです」
「シリーズ」
「十二枚組の、一枚目」
言ってから、少し口が滑ったと思った。ヨゾラは僕の濡れた前髪をタオルで拭きながら、当然の顔で続きを待っている。
十二枚。最終章。黒いページのすぐ手前にある、僕の、時間の魔法。
……全部を見せる日のことを、少しだけ考えた。まだ先だ。まだ先だけど、たぶん、いつか。
「残りの十一枚は?」
「……ひみつ」
「ん。——楽しみにしてる」
外は本降り。中は湯気。約束が、また一枚、増えた気がした。
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