第27話 禁書開帳《ぜんぶみせる》
夕食のあと、僕は荷物のいちばん底に、手を入れた。
指先が、硬い表紙に触れる。五年ものの、一冊のノート。取り出して、机に置いて、僕はしばらく表紙と睨み合った。
『禁忌の書』。
自分の字で、そう書いてある。銀のペンで、無駄に飾った字で。
昨日、ヨゾラは言った。楽しみにしてる、と。あれから今日一日、彼女は続きを催促しなかった。しない人なのだ。熱の夜からずっと、この子は僕の「言いたくなるまで」を、いつも待ってくれる。
だから、決めるのは僕の側だ。
「ヨゾラ」
暖炉の前で繕いものをしていた彼女が、顔を上げる。僕はノートを胸に抱えたまま、たぶん世界一かっこ悪い前置きを始めた。
「これから見せるものは、その、笑わない……いや、笑ってもいいんだけど、できれば心の中で、あと引かないでほしくて、引いてもいいんだけど態度には——」
「ん。開けて」
前置きは一秒で終了した。
暖炉の前に、二人で並んで座る。膝の上に、ノートを開く。
一ページ目には、注意書きがある。
「なんて書いてあるの?」
……そうだった。この世界の字と、僕の世界の字は、違うのだ。僕はなぜか帳面の字が読める(理由は、いまだに謎だ)。でもヨゾラから見た僕のノートは、意味の取れない模様の行列らしい。みみずが整列してる、と彼女は言った。かわいい形容をありがとう。つまり、整列したみみずを、僕がこれから全部、音読するのである。地獄の扉はこうして開く。
「『この書を開きし者よ、相応の覚悟を持て。ここに記されしは、世界の理の外側なり』……」
「覚悟した」
真顔だった。地獄の扉が、なんだか神聖な儀式になってきた。
数ページめくると、人物の設定画が現れる。黒い外套の、右目を前髪で隠した女の子。その周りを、びっしりと埋める書き込み。
「これ、あなた?」
「……五年前の僕が、なりたかった僕。名前も、ある」
指で、その一行をなぞる。声に出すのに、深呼吸が三回要った。
「ルナ・エクリプス。……ルナの、フルネーム」
「るな、えくりぷす」
復唱しないでほしい!! 心臓に悪い!! ヨゾラは僕の名前の続きを口の中で転がして、それから首を傾げた。
「えくりぷすって、なに」
「月蝕。……月が、欠ける夜のこと。影が月を隠して、まるごと消えたみたいに見える夜が、たまにあるんだ」
「……月が、消える?」
ヨゾラの目が、まん丸になった。この世界で見たことがないのか、言葉がないだけなのか。どちらにしても、彼女は窓の外の月をわざわざ確かめてから、宣言した。
「今度あったら、見る。一緒に」
約束が、また増えた。月が欠ける夜の、先の先の約束である。
ページは、進む。
戦闘用の編み込みの図解には「これ、あの髪」と指が差さり、紅蓮の獣の見開きには、しばらく沈黙が落ちた。
「……会った」
「会ったね」
絵の獣と、あの日の獣は、同じ巻き角をしている。ノートの中の空想に、この子は現実で会っているのだ。改めて考えると、とんでもない話である。
魔眼のページ。月輪結界の下書き。そして——おびただしい、書き損じ。
消して、書いて、また消した跡。線で潰された言い回し。余白を埋め尽くす、五年ぶんの推敲。ヨゾラはその汚いページたちを、綺麗な設定画より長く、指でなぞった。
「……ばあちゃんの帳面と、同じ」
「え?」
「祝詞のところ、こんなだった。書いて、消して、書いて。……同じ机だ」
黒歴史ノートと、祝詞の稽古帳が、同じ机。五年のあいだ、僕は知らないまま、番人の修行をしていたのかもしれなかった。
次のページに彼女の指がかかった瞬間、僕は電光石火でノートを半分閉じた。
「そこは!! 飛ばします!!」
「?」
「飛ばすったら飛ばす!! いつか!! いつかね!!」
ヨゾラは不思議そうにしていたが、追及はしなかった。しない人なのだ。助かる。心臓の音まで聞かれていないことを祈りつつ、僕は数ページ先まで一気にめくった。
最終章の扉には、十二の名前が並んでいる。
「これが、十二枚」
「ん。一枚目、昨日の」
一ノ刻から、十二ノ刻まで。ヨゾラは目次を上から順に、読めない字のまま眺めていった。途中、六番目の行を指して「これは?」と聞くので、名前だけ教えた。修繕。時間を少しだけ遡らせて、壊れたものを直す魔法——という設定である。
「……祠の石積みと、道の段に、使える」
「仕事の話!?」
即答だった。僕が三ヶ月かけて練り上げた時間魔法の使い道を、道の係は三秒で見つけてしまった。番人の家の子は、発想が実務なのである。でも、悪くない。壊すためじゃなく、直すために使う時間の魔法というのは、たぶん、中三の僕が聞いても喜ぶ。
詠唱の中身は、読み上げなかった。これは、使う日に聞いてもらう言葉だ。ただ——十二番目の行の上で、彼女の指が、少しだけ止まった。
そこだけ、書き方が違うからだ。理由は、まだ言わない。
そして、最後のページ。
めくる手が、一度だけ迷って、それでも、めくった。
ページの頭に、短い題がある。今夜、初めて、僕は読み上げなかった。その下に——
黒。
一行ぶんの、塗りつぶし。読めない字の国の彼女にも、これが「消された何か」であることだけは、一目でわかったらしい。ヨゾラは長いこと、その黒い線を見つめていた。聞かない人が、それでも、静かに口を開いた。
「……熱のとき、言ってた。『呼んだら』って。——こっち?」
来た。あの夜の、答え合わせだ。
「……たぶん、両方。熱で、ぐちゃぐちゃだった」
結月と、この黒。二つとも封印していたから、熱の底で混ざったのだ。僕は黒い線を見下ろして、ゆっくり、言葉を選んだ。
「僕の本当の名前は、結月。それは、ほんとう。……で、これは」
五年間の、いちばん奥。ルナ・エクリプスの、さらに奥。呼んだら世界が変わると、本気で信じていた——
「……いつか。いつか、ね」
言い切れなかった僕に、ヨゾラは頷いた。それから、あの熱の夜と同じ、指切りみたいに固い声で言った。
「ん。聞かない。——あなたが、言いたくなるまで」
呼ばない、の隣に、聞かない、が並んだ。この子の約束の棚に、僕の秘密がまた一つ、大事にしまわれていく。
ノートを閉じて、ヨゾラは両手でそれを僕に返した。
「ありがとう。見せてくれて」
それから、一拍おいて。
「——全部、綺麗だった」
詠唱一つを綺麗だと言った川辺の人は、五年ぶんの全部にも、同じ目で、同じ言葉をくれた。何か返したかったのに、喉の奥が詰まって、頷くことしかできなかった。ノートを胸に抱く。五年間が、腕の中で、初めてあたたかい。
「また、読ませて」
「……はい。いつでも」
一話完結の作品を投稿しました。
「隠れるほうは、わたしにさせて」
星の器に選ばれた王女と、その侍女の話です。
こちらとは打って変わって静かな話になっています。




