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『封印したはずの名前を、彼女が呼ぶ——中二病少女の異世界黒歴史』  作者: 鏡花
星辰編

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第28話 異邦の使者《おつかい》

 峠を一つ越えると、風の匂いが変わった。


 草の匂いに、土と、かすかな果実の甘さが混ざる。森とは反対の、北へ向かう道。転移からずっと森ばかり見てきた僕にとって、この方角は、まるごと未踏だった。


 発端は、行商人さんである。ひさびさに村へ来た彼が、荷ほどきより先に長老の家へ駆け込んだのだ。いわく——北の集落が、ざわついている。あれだけ暴れていた獣が、ぱたりと大人しくなった。夜の妙な気配も消えた。南の村で何かあったに違いない、様子を知りたがっている、と。


 「顔を出してきてくれんかの」


 長老は僕とヨゾラに、そう言った。村の使いとして。土産の塩と、言伝を持って。……務めの中身は、言わずに。


 というわけで、初めての、よその土地である。


 「結月。歩くの、速い」


 「あ、ごめん……って、いいの? 呼び方」


 「誰もいない。道は、二人のとき」


 律儀な運用だった。ただしヨゾラは、遠くの畑に人影が見えるたび、瞬時に「ルナ」へ切り替える。人影が茂みに隠れると「結月」に戻る。切り替えの精度が高すぎて、僕の心臓のほうが忙しい。


 そして今日は、いつもと逆だった。


 道を知らないのは、ヨゾラのほうなのだ。


 「……初めて。村より、北」


 ぽつりと、彼女は言った。番人の家の子は、森の道なら目をつぶっても歩ける。でも人の道は、市より遠くへ出たことがなかったらしい。峠にかかる頃から、彼女の肩は少しだけ固くなっていた。知らない土地。知らない人。遠巻きにされてきた家の子にとって、それはたぶん、森より落ち着かない場所だ。


 「大丈夫。旅は、僕のほうが先輩なので」


 「……先輩」


 「これでも、世を忍ぶ旅の人をやってたから。三日間」


 三日、とヨゾラが小さく笑って、肩の固さが少しほどけた。あの三日の困窮が誰かの役に立つ日が来るとは、当時の僕に教えてやりたい。


 北の集落は、山裾の日当たりに広がっていた。


 斜面に段々の畑。低い木が整然と並んで、青い実をつけている。……林檎だ。見覚えのある、あの林檎。風の甘さの、正体だった。


 集落の入り口で、僕たちは当然、警戒された。よそ者の子ども二人である。けれど「南の村から、長老の言伝で」と告げたとたん、空気が変わった。


 「南の!!」


 人が、集まってきた。集まって、質問が降ってきた。


 「あんたらの村で、何があった」「獣がぴたりと止んだんだ、半月ばかり前からな」「夜にな、南の山の向こうが光ったって者もいる。月色のと——火の色のと」


 月色と、火の色。


 心臓が、一つ跳ねた。月鎖と、紅蓮。あの日の光は、峠を越えて、ここからも見えていたのだ。隣で、ヨゾラの手が僕の袖を、そっとつまんだ。落ち着け、の合図。


 「——森が、落ち着いただけです」


 僕は、それだけを言った。


 嘘ではない。全部でもない。獣が減った理由も、光の正体も、祠のことも、番のことも、この場所には持ち込まない。約束の中身を知らんでも、約束は守れる——長老の言葉の、その外側の縁に、いま僕たちは立っている。ばあちゃんが、そのまた前の番人たちが、何十年もこうして黙ってきたのだ。黙るという仕事の重さを、よその土地の日差しの下で、初めて肌で知った。


 集落の人たちは物足りなそうな顔をして、それでも、深くは追わなかった。かわりに、と言うように、年かさのおじいさんが南の方角へ、深々と頭を下げた。


 「わけは、わからん。わからんが——南に足を向けて寝られん、この頃は」


 礼の宛先が、ないのだ。誰が何をしたのか、知らないから。頭を下げる方角しか、ないから。隣のヨゾラが、まっすぐ前を向いたまま、それを受け取っているのがわかった。番人の家は、何十年も、こういう宛先のない礼の、本当の宛先だった。


 不思議な心地も、あった。


 ここでは、誰も僕を「ルナ様」と呼ばない。魔法使い様とも、番人様とも。ただの、南から来た使いの子。名前を聞かれて「ルナです」と答えたら、「変わった名だな」で終わった。それだけだ。軽い。軽くて、少しだけ、心細い。ひと月かけて村に積み上げてきたものの重さを、それが無い場所に来て、初めて量った気がした。


 そしてこの土地で、僕の名前をちゃんと知っているのは、隣を歩く一人だけなのだった。それは、悪くない心細さだった。


 それから僕たちは、囲いの修理を少し手伝い、白湯(さゆ)をよばれ、質問攻めの二巡目を「森が落ち着いたので」で乗り切った。途中、井戸端で遊ぶ子どもたちとすれ違ったら、元気な声が飛んできた。


 「——かいがんせよ!!」


 「!?」


 聞けば、市で南の子から教わった「南で流行りの挨拶」らしい。文化侵略が、始まっている。発生源については、考えないことにした。


 帰り際、例のおじいさんが、麻袋をひとつ押しつけてきた。ずっしり重い。中身は、青林檎。


 「うちの林檎だ。南の市にも回しとる。……礼の宛先が、わからんのでな。あんたらに持たせる」


 受け取った麻袋を、ヨゾラが大事そうに抱え直した。おじいさんは、青い実の並ぶ斜面を(あご)で示して、付け足した。


 「秋には、赤くなる。……また来い。今度は、客としてな」


 「ん。来る」


 即答だった。甘党の返事は、速い。


 あの見舞い林檎の、故郷だった。包み焼きの材料の、生まれた場所。宛先のない礼がめぐりめぐって、いちばん林檎を焼く家に届くことになる。世の中は、たまに、うまくできている。


 帰り道、峠にかかる頃には、日が傾いていた。


 「ね、結月」


 人影の消えた道で、ヨゾラが呼んだ。


 「獣がまた暴れたら、誰に報せればいいのかって、聞かれた。……私、答えられなかった」


 「うん」


 「祠に行けるのは、月に幾度か。森は広い。円は、村の外まである。——見ていない時間が、多すぎる」


 道の係の目は、正確だった。務めの穴。番人が二人がかりでも埋まらない、時間の穴。僕はそれを聞きながら、頭の中で、ノートのあるページをめくっていた。


 使い魔の設計図が載っている、あのページ。項目名、『月穹(げっきゅう)眷属(けんぞく)・兎型一号』。……「一号」というネーミングについては、今は考えないことにする。


 「——心当たりが、一つ、ある」


 峠の上から、村の灯が見えた。麻袋の中で、青林檎が、ころりと鳴った。


一話完結の作品を投稿しました。


「隠れるほうは、わたしにさせて」

星の器に選ばれた王女と、その侍女の話です。

こちらとは打って変わって静かな話になっています

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