第29話 月穹の眷属《みはりばんめんせつ》
「——で、兎」
「兎です」
「見張り番が」
「兎です」
森へ向かう道すがら、ヨゾラは三度目の確認をした。無理もない。一昨日の夜、僕がノートの例のページを開いて見せたとき、彼女は設計図をじっと眺めて、一言「……かわいい」と言ったのだ。
かわいい。五年前の僕が全霊で格好よく描いたつもりの使い魔は、初見の感想「かわいい」であった。……まあ、いい。今日はその、かわいいを、呼びに行く。
今日の祠行きは、務めの日ではない。臨時である。目的はただ一つ——見ていない時間の、目を置くこと。
道中、囁き版の魔眼で結び目を確かめた。月色の光には、まだ張りがある。ばあちゃんの帳面いわく、締め直しの頃合いは暦ではなく、結び目を視て決めるものらしい。緩む前に、けれど締めすぎず。何十年ものの職人の勘所を、僕は少しずつ、目で覚えていく。
祠の広場は、今日も静かだった。ヨゾラが定位置で手を合わせ、僕はその斜め後ろで、目を伏せて待つ。それが済んでから、僕たちは広場の真ん中に立った。
「じゃあ、呼びます」
「ん」
ノートは開かない。あのページの言葉なら、もう頭に入っている。五年前に書いた設定が、また一つ、本物になる。何度やっても、この瞬間の緊張と羞恥は慣れない。
息を吸う。両手を、空に向ける。
「来たれ、月穹の原を駆ける、銀の眷属。満ち欠けを数え、夜の見張りを務めし小さき影よ——我が声に応え、いまここに現れよ!!」
言い切った。
一拍、遅れて——広場の真ん中に、銀色の光が、ぽつんと灯った。
光は膨らんで、丸くなって、耳が生えて、するりと形を結んだ。
兎だった。
両手にすっぽり収まるくらいの、銀白の兎。毛先がほのかに光っている。こちらを見上げた瞳は金色で、瞳孔が——三日月の形をしていた。
あの獣と、同じ意匠。同じ作者だから、当然である。額には細い弧を描く小さな紋。
ぴょこ、と跳ねると、着地の跡に銀の燐光がひと呼吸だけ残って、りん、と鈴に似た音がした。声帯ではなく、鈴。
設計図どおりだ。当時の僕の美学が、完璧に実装されている。
「……………………」
「……………………」
二人とも、しばらく無言だった。先に膝をついたのは、ヨゾラだった。そっと手を差し出す。兎は、ためらいなくその手に鼻先を寄せて、それから、ぴょんと彼女の膝に乗った。
「僕の使い魔なのに!?」
「ん。……あったかい」
報告いらないんだよ、その情報!! 主である僕には近寄りもしない銀の眷属は、ヨゾラの膝の上で丸くなり、悠々と毛づくろいを始めた。
月の眷属が、夜空に懐く。名前の相性というやつだろうか。納得しかけて、悔しいので納得しないことにした。
気を取り直して、僕は兎の前にしゃがみ、辞令を交付した。
「君の仕事は、見張りです。僕たちがいない間、この祠と、森を見ていてほしい。何かあったら、報せて。……できる?」
兎は僕を見た。金の瞳が、ゆっくりまばたきをする。額の細い弧が、ふ、と一度だけ明るくなった。了解、に見えた。願望かもしれない。
すると今度は、ヨゾラが兎の前にしゃがんだ。小石を三つ拾って、地面に置く。祠、境、村。即席の地図だった。
「ここが、持ち場。ここから先で変なことがあったら、ここへ報せに来て。道は、覚えなくていい。あなたの足跡、光るから——帰りは、自分の足跡をたどればいい」
道の係の講習は、簡潔で的確だった。燐光の足跡を帰り道に使う発想は、設計者の僕にもなかった。兎は小石を順番に鼻でつついて、最後に、りん、と鳴いた。優秀である。たぶん僕より、話が早い。
そのとき、ヨゾラが「あ」と小さく言った。
彼女の膝の上で、兎の耳が、ぱたりと倒れたのだ。倒れた耳の、内側が見えた。
深い、藍色だった。
「……この色」
「?」
「な、なんでもない」
なんでもなくは、なかった。夜空の色だ。
五年前の僕は、月と夜空はセットだから、という理由でこの配色を選んだ。はずだった。それが今、目の前で、藍色の目をした女の子の膝に乗っている。
設計した本人の心臓に、この符合は悪い。深呼吸で誤魔化した。
異変は、その少しあとに起きた。
兎の輪郭が、ふっと薄くなったのだ。
「え」
足元の燐光から順に、体が光の粒にほどけていく。兎は慌てるでもなく、ただ少し困ったように僕たちを見上げて、りん、と一度鳴った。ヨゾラが手を伸ばす。その指をすり抜けて、銀の粒は、すう、と空の高いところへ昇って、見えなくなった。月へ帰ったのだと、理屈より先に、わかった。
広場に、静けさが戻った。
「……帰っちゃった」
「……帰っちゃった」
僕は大急ぎで、荷物からノートを引っ張り出した。使い魔のページ。設計図。スペック。『主に永く仕え、月なき夜も主の傍らを照らす』。
……永く仕える方法が、どこにも書いていない。呼び出す口上は何晩もかけて練ったくせに、居てもらい方を、当時の僕は一行も考えていなかった。召喚がゴールの人だったのだ、あいつは。
「結月」
ノートを睨む僕の隣に、ヨゾラがしゃがんだ。
「あの子、消える前……困った顔、してた。帰りたくて帰ったんじゃない、と思う」
「……うん」
たぶん、そうだ。そして理由の見当も、もう、ついている。この世界の理屈だ。僕が身をもって知った理屈。呼ばれて、応えて、名前で結ばれて——それでようやく、ここに居場所ができる世界。
「名前が、ないんだ」
名のないものは、この世界に、居続けられない。だからあの子は、月へ帰るしかなかった。
「……『いちごう』は?」
「番号!! あれは名前じゃなくて、ただの番号!!」
真顔の第一候補に全力で抗議してから、気づいた。そうか。詠唱が呼んでいるのは「銀の眷属」——種族の呼び名だ。
だから、あの子は来られる。でも、来られるだけ。書いてある札と、呼んで結ぶ名前は、違うのだ。
……その違いなら、僕は誰より、身をもって知っている。
祠を見上げる。あの戸の向こうには、名前を喰らって太ろうとしたものが封じられている。そして空の上には、名前をもらえなくて帰っていった、小さな銀色がいる。名前を奪うものと、名前を待つもの。この世界で、名前は、それくらい重い。
「じゃあ」
ヨゾラが立ち上がって、スカートの土を払った。当然のことを言う、いつもの顔で。
「つけよう。名前。——いいのを」
「うん。ちゃんと考えたい。即席じゃなくて」
「ん。家で。二人で」
帰り道は、二人とも、ずっと名前の話をしていた。候補を出しては、違う、と首を振り合って。名づけがこんなに難しくて、こんなに楽しいものだとは知らなかった。
夕方の空に、薄い月が浮かんでいる。
あの月のどこかで、名前のない兎が、次に呼ばれる日を待っている。今度呼ぶときは、ちゃんと、渡すものを持って呼ぼう。
一話完結の作品を投稿しました。
「隠れるほうは、わたしにさせて」
星の器に選ばれた王女と、その侍女の話です。
こちらとは打って変わって静かな話になっています




