第30話 一字ずつ
命名会議は、難航していた。
祠から帰って、夕食をかき込んで、僕たちはすぐに机についた。今夜のうちに決める。決めて、呼ぶ。渡すものを持って呼ぼうと、帰り道に決めたのだ。
その机の上に、紙が一枚。書かれては消される、候補の墓場である。
「だから、シルヴァ・ルクス。銀の光っていう意味で——」
「長い」
「クレセント・ノワールは」
「呼べない」
「月影の眷属アルテミ——」
「舌、かむ」
全没だった。僕の魂を込めた候補たちが、呼びやすさの壁に次々と散っていく。ヨゾラの採点基準は明快である。呼びやすいこと。覚えやすいこと。あの子に似合うこと。……ぐうの音も出ない。名前は呼ぶためのものだと、この世界がいちばんよく知っている。
「じゃあ、そっちの案は」
「ぎん」
「安直!!」
「しろ」
「色!!」
「みみ」
「部位!!」
お互い様だった。会議は振り出しに戻り、紙の墓場が、また一列増えた。
「……よづき、は?」
「え?」
「夜の、月。夜月」
一瞬、いいかも、と思ってしまった。思ってから、気づいた。
「僕と一字違いだよ!? ゆづきと、よづき!! 絶対、呼び間違える!!」
「ん。……間違えたら、あなたが来るの、ちょっといい」
「よくない!!」
よくなくは、ない。よくなくはないが、ややこしさが勝つ。没。ヨゾラは少しだけ残念そうに、紙に線を引いた。
「なら……りん」
ぽつり、と彼女が言った。
「鳴いてた。りん、って」
……覚えている。呼んだときと、帰るとき。鈴の音。それに、と僕は気づいた。あの子の足跡の光——燐光の燐も、「りん」と読む字だ。ヨゾラの耳が聞いた音と、僕が選んだ字が、同じ一音を指している。
「いい名前だ」
本気でそう思った。思ったのに、ヨゾラは自分の案に、ゆっくり首を振った。
「ん。いい。……でも、あれは、あの子が持ってきた音。私たちが贈るのとは、少し違う」
贈る。その言葉に、僕は居住まいを正した。そうだ。名前は待っている側の持ち物から選ぶんじゃない。贈る側が、自分の持ち物から切って、渡すものだ。
あの霜の広場で、僕は名前を呼ばれて、この世界に結ばれた。もらう側だった僕が、いまは贈る側に座っている。もらったものは、こうやって回していくものなのかもしれなかった。
会議が煮詰まって、僕たちはなんとなく、窓の外を見た。
宵の空。西の低いところに、糸みたいな月が、まだ残っている。深い藍色の空に、細い銀。……見慣れた配色だった。毎晩、この家の窓にある景色。
「……月と、夜」
空を読み上げるみたいに、ヨゾラが言った。
「月夜。——つきよ」
月夜。
口の中で、転がしてみる。三音。呼びやすい。意味は、月が夜空にいる景色。あの子の毛の色で、瞳の形で、それから——
「月は、あなた」
ヨゾラは窓の外を見たまま、続けた。
「夜は、私。……一字ずつ」
一字ずつ。
……それ、僕の世界だと、親が子どもに付けるやつです。とは、言えなかった。言ったら最後、この会議を平常心で終えられる自信がない。僕は口を閉じて、頷くだけにした。心臓のほうは、閉じられなかった。
「ツキヨ」
声に出すと、決まった、という音がした。
紙の墓場のいちばん下に、ヨゾラが丁寧な字でそれを書く。線は、引かれなかった。
渡すものは、もう用意してある。小さな木の椀に、蜂蜜をほんの少し溶かした水。専用の壺から、である。「少しだけ」と言いながら壺を抱えて出したヨゾラの葛藤は、見なかったことにした。
庭に出る。宵の風。糸の月が沈む前に。
「呼ぶよ」
「ん」
息を吸う。二度目でも、この口上は照れる。照れるが、今夜はそれどころではない。
「来たれ、月穹の原を駆ける、銀の眷属。満ち欠けを数え、夜の見張りを務めし小さき影よ——我が声に応え、いまここに現れよ!!」
銀の光が、庭先にぽつんと灯って、丸くなって、耳が生えた。
兎だ。あの子だ。こちらを見上げて、首を傾げている。また呼ばれた、という顔で。
僕とヨゾラは目を合わせて、頷き合った。しゃがんで、あの子と目線を合わせる。せーの、は要らなかった。息は、勝手に揃った。
「「——ツキヨ!!」」
二人の声が、一つの名前になって、宵の庭に落ちた。
兎の耳が、ぴんと立った。
額の細い弧が、ふわりと光を増す。銀の毛先を、燐光がひとめぐり、体を一周して——それから、あの子は、ぴょこんと跳ねた。跳ねて、着地して、りん、と鳴いた。足跡の光が、祠で見たときより長く、地面に残っている。
ヨゾラが、そっと抱き上げた。
「……重くなった」
腕の中の兎を見下ろして、彼女は言った。気のせいじゃない、という顔で。名前の重さのぶんだけ、あの子はこの世界に、重くなったのだ。居場所とは、たぶん、重さのことなのだった。
蜂蜜水の椀を差し出すと、ツキヨは鼻先を突っ込んで、それから、りんりん、と続けて鳴いた。二度鳴きは、初めて聞く。気に入った、の意味だと思うことにする。ヨゾラが満足そうに「好物、覚えた」と頷いた。専用壺の門番が、早くもこの新入りの甘党に、壺を明け渡しそうである。
ちなみに、名前をもらったツキヨが最初に飛び乗ったのは、今夜もヨゾラの膝だった。名づけ親その一としては、複雑である。僕の膝は、いつ解禁なのか。
「ツキヨ。明日からの持ち場、覚えてる?」
問いかけると、額の弧が、ふ、と光った。祠と、境と、村。ヨゾラの講習は生きているらしい。普段は森。何かあれば、報せに来る。そして——
「たまには、報せがなくても、来ていい」
ヨゾラが付け足した。業務連絡に私情を挟むな、とは、僕には言えなかった。同じことを考えていたからである。
それからヨゾラは道の書を開いて、新しいページに、丁寧な字で一行を書いた。仲間の欄、だそうだ。『ツキヨ。月穹の眷属。見張りの係』。番人の引き継ぎ書に、係がまた一人、増えた。
夜が更けても、ツキヨは消えなかった。
暖炉の前で丸くなる銀色を、二人で、いつまでも眺めた。明日からは、森が持ち場だ。でも今夜だけは、ここでいい。名前をもらった最初の夜くらい、名前をくれた家で眠ればいい。
ヨゾラが、兎の耳の付け根をそっと撫でて、言った。
「おやすみ、ツキヨ。……おやすみ、結月」
窓の外に、月はなかった。糸のような月は、とうに沈んでいる。——今夜の月なら、暖炉の前で、丸くなって眠っていた。
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