第31話 機密任務《ないしょのじゅんび》
りん、と鈴の音で、朝が来た。
戸を開けると、銀色が座っていた。ツキヨである。名前をもらってから、あの子は律儀にこれをやる。朝、森のほうから駆けてきて、家の前でりんと一声。出勤前の挨拶だ。
教えていないのに、勝手に始めた。「たまには来ていい」の「たまには」を、あの子はどうやら「毎日」と訳したらしい。
「いってらっしゃい、ツキヨ」
ヨゾラが言うと、ツキヨはぴょこんと跳ねて、燐光の点線を残しながら森へ駆けていく。見送る朝が、うちの新しい日課になった。
その日の昼前だった。
りんりんりん!! と、けたたましい鈴の音が、畑のほうから近づいてきた。
「ツキヨ!?」
「報せ……!?」
二人同時に、腰を浮かせた。初仕事だ。まさか、もう何か——身構える僕たちの足元で、ツキヨはくるりと回って、森のほうへ数歩、また戻って、りん。ついてこい、である。僕は鉈を掴み、ヨゾラは道の書を掴み、僕たちは森の縁まで全力で走った。
案内された先は、日当たりのいい斜面だった。
「……木苺?」
緑の茂みに、赤くなりかけの小さな実が、点々とついている。木苺の群生地だった。ツキヨは茂みの前で得意げに一回転して、りんりん、と二度鳴いた。いいものを見つけた、の報せである。
「…………」
「…………」
膝から、力が抜けた。見張り番の記念すべき第一報は、敵でも異変でもなく、おやつの在処だった。でも——隣を見ると、ヨゾラが真剣な顔で、実の熟れ具合を確かめている。
「まだ、早い。……あと数日で、食べ頃」
道の係は、実りの係も兼ねているらしい。あと数日。彼女はその言葉を、口の中でもう一度、転がした気がした。
茂みの端に、一粒だけ、先に赤くなった実があった。ヨゾラがそれを摘んで、三つに割った。僕に一つ、自分に一つ、ツキヨに一つ。
食べると、甘酸っぱさが舌の上ではじけた。まだ少し尖った、若い甘さ。数日後の完成形を予告する味である。ツキヨは目を細めて、りんりん、と鳴いた。発見者の特権というやつだ。
「これ、熟したら、蜂蜜と焼いたら絶対おいしい」
「ん。……覚えた」
何かの帳簿に、また一行増えた気配がした。
午後は、約束の日だった。
包み焼き、三回目。材料は、北の集落の青林檎である。酸味が強いぶん、蜂蜜を心持ち多めに。もう手順を諳んじているヨゾラが生地を伸ばし、僕が林檎を並べ、火加減大臣が竈を仕切る。
割った断面から、湯気と一緒に、少し大人びた香りが立った。北の青林檎は酸味が強い。その酸っぱさを蜂蜜が丸めて、一回目とも二回目とも違う味になっている。あの山裾の段々畑と、南に頭を下げたおじいさんの顔を、僕はもう知っている。産地を知っている味は、少しだけ、深い。
「三回目、完了」
「完了です」
「——次の約束を、決めた」
来た。あの日の宣言の、回収である。三回焼いたら、次の約束をする。僕は居住まいを正した。
「何?」
「当日に、言う」
「当日っていつ!?」
「ひみつ」
保留された。約束の内容も日付も伏せたまま、ヨゾラは澄まして二切れ目に取りかかった。ずるい。気になって、午後が手につかない。
誕生日の話が出たのは、その流れだった。
「約束とか、記念の日って、いいよね。僕の世界にも、あるんだ。誕生日っていうのが……あ」
言いながら、指を折った。転移してからの日数は、ずっと数えている。数えて、気づいた。
「……もうすぐだ。僕の誕生日」
「たんじょうび」
ヨゾラの手が、ぴたりと止まった。
「生まれた日のこと。僕の世界だと、年に一回、周りがその人を祝うんだ。ごちそうとか、甘いものとか、贈り物とか」
ヨゾラは、少しのあいだ黙った。それから、静かに言った。
「この村は、生まれた日を、あんまり祝わない。祝いごとは、収穫と、季節のもの。……でも、ばあちゃんは、私の生まれた日だけ、甘い薬湯を濃く煮てくれた」
祝いの記憶が、彼女にも一つ、あるのだった。だからこの人は、「祝う」という言葉に、こんなにまっすぐな目をするのだ。
「いつ」
「え? えっと、僕の世界の暦で、六月六日。こっちの数え方だと——」
説明しようとした僕の前で、ヨゾラはすでに道の書を開いていた。仲間の欄の次のページに、何かを書きつけている。
「業務!? それ業務の帳面!!」
「大事なことは、書く」
真顔だった。僕の誕生日が、番人の引き継ぎ事項に登録された瞬間である。後世の番人が読んだら、どうするんだこれ。
その日の午後から、ヨゾラの様子が、おかしくなった。
まず、一人で出かけた。「山菜」と言って出て、手ぶらで帰ってきた。山菜はどうした。次に、布の包みを抱えて歩いていた。僕が近づくと、さりげなく、しかし断固として背中に隠した。
かと思えば、井戸端でおばさんと何か話し込んでいて、「あんた、そういうとこ、ばあちゃんそっくりだよ!!」と背中を叩かれて笑われている。何の話かは、聞けなかった。夜は夜で、暖炉の隅に背を向けて座り、手元で何かをしている。覗こうとすると、ぱたんと布がかぶさる。
極めつけは、ツキヨである。
夕方、森から戻ったあの子が、ヨゾラのところへ一直線に行き、りんりん、と何やら報告をした。ヨゾラは頷いて、僕をちらりと見て、ツキヨに何か囁き返した。
「……ツキヨ。何の話をしてたの」
りん。
とぼけられた。使い魔まで、グルである。名づけ親その一の威厳は、どこへ行ったのか。
まさか、と思う。まさか、誕生日の。いやいや、自意識過剰だ。今日聞いたばかりで、もう何か始めるわけがない。……いや、あの人、思い立ったら即日実行の人だしな。包丁の握りが鉈の人だしな。期待と否定のあいだを行ったり来たりして、僕はその晩、なかなか寝つけなかった。
思えば——誰かに指折り数えてもらう誕生日なんて、いつぶりだろう。鍵っ子の誕生日は、机の上の置き手紙と、買ってきたケーキと相場が決まっていた。悪くはなかった。悪くはなかったけど、日付を覚えていてくれる人の気配がある誕生日は、まだ来てもいないのに、もう少し、あたたかい。
寝床から、そっと居間を見る。
暖炉の残り火の前で、ヨゾラはまだ机に向かっていた。手元は、見えない。ただ、小さな声だけが聞こえた。指を、一本ずつ折りながら。
「……ろくがつ、むいか」
異国の暦を、覚えようとしている声だった。
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