第32話 六月六日
その朝の目覚めは、視界いっぱいの藍色から始まった。
「おはよう」
「おはよ……近っ!?」
跳ね起きた僕の枕元に、ヨゾラが正座していた。いつから居たのか。窓の外はまだ朝の白さで、彼女の顔は、何かをやり遂げる直前の人の顔をしていた。
「今日が何の日か、言える」
「え? ……何の日?」
聞き返した瞬間、ヨゾラの目が、深い満足に細められた。負けた、と思った。何にかは分からないが、完全に負けた。
「六月六日」
「……あ」
忘れていた。ほかならぬ僕が、忘れていた。転移からの日数は毎日数えていたのに、その数字と自分の誕生日を結びつける習慣が、僕にはもう、ずいぶん前からなかったのだ。数えてくれる人が、いなかったから。
その空白に、まっすぐ、彼女の声が落ちた。
「——おめでとう、結月」
五日前に覚えたばかりの異国の暦で、僕より先に、僕の日を言い当てた人が、そこにいた。
十七歳の、最初の朝ごはんは豪華だった。
焼きたてのパンに、ふわふわの——卵焼き。この村に来て、初めて見る卵である。聞けば、おばさんの家の鶏のだという。
井戸端の相談の正体、その一が判明した。誕生日のごちそうに卵を分けてほしい、という交渉だったのだ。
ついでに贈り物の相談もしたらしく、「あんた、そういうとこ、ばあちゃんそっくりだよ!!」はその流れだったと、後からおばさんが笑って教えてくれた。内緒で誰かの支度をするやり方が、そっくりなのだそうだ。
台所を仕切るのは、今日はヨゾラだった。
「座ってて。今日は、私が焼く係」
作れる人が二人いると、回数が増える——あの日の真顔の算数には、続きがあったらしい。作れる人が二人いると、片方を座らせて祝える。習った理由の半分は、たぶん、今日のためだった。
りん、と戸口で鈴が鳴った。
ツキヨである。朝の挨拶に来た銀色は今日、なぜか口に小さな白い花をくわえていた。僕の膝の前にぽとりと置いて、りんりん。……献花、いただきました。名づけ親その一、ついに膝より先に花を解禁される。
「ツキヨ」
ヨゾラが、フライ返しを持ったまま振り向いた。
「……もう、毎日で、いい。たまには、じゃなくて」
りん!! と、ひときわ高い音がした。「たまには」を「毎日」と訳していた子の運用が、この日、正式に追認された。
ちなみにあの子のねぐらは、祠の軒下だという。封じた戸の前で眠る、小さな見張り。夜の祠をいちばん知っているのは、いまや僕たちではなく、あの子である。
昼前、ツキヨの先導で、森の縁へ行った。
木苺が、食べ頃になっていた。
「……ちょうど今日、って」
「ん。毎日、聞いてた」
夕方の報告の正体、その二である。ヨゾラはツキヨに、熟れ具合を毎日報せさせていたのだ。見張りの係の業務日誌に「木苺の監視」が載っていたとは、名づけ親その一は知らなかった。摘みながら一粒、また一粒とつまみ食いをして、ツキヨの取り分をめぐって小さな外交交渉があって、籠は昼過ぎには真っ赤になった。
午後は、台所で甘い匂いの実験である。
木苺を蜂蜜でさっと煮て、麦粉の生地に乗せて、焼く。包み焼きで鍛えた工程の、応用編だ。竈の前の火加減大臣は今日も的確で、焼き上がったそれは、赤と金色の、見たこともないくらい誕生日らしい菓子になった。
木苺の蜂蜜焼き。命名、僕。安直と言われたが、ぎん、しろ、みみの人には言われたくない。
夜になって、僕は一つの文化を輸出した。
「火を一本だけ灯して、願いごとをして、吹き消すんだ。僕の世界の、誕生日の決まり」
「願いは、言うと叶わない?」
「内緒にするのが、決まり」
ヨゾラはしばらく考えて、それから言った。
「……私も、する」
「ヨゾラの誕生日じゃないけど!?」
「練習」
というわけで、木苺の蜂蜜焼きの上に、小さな火が二つ灯った。ろうそく一本ぶんの火のために、僕はフルサイズの点火詠唱を唱えた。ヨゾラは「点け」の一言。
長い言葉と、短い言葉。——並んだ火は、同じ大きさで揺れていた。
二人で目を閉じて、それぞれの内緒を願って、同時に吹き消した。……横からツキヨの鼻息が参戦して、消火は三者同時になった。願いの効力への影響は、不明である。
ちなみに僕の願いごとは、内緒である。内緒だが——目を閉じる直前に見た、隣の横顔と膝の上の銀色が、その文面のほぼ全部を占めていたことだけは、白状しておく。
それから、ヨゾラが席を立った。
戻ってきた手に、あの布の包みがあった。
「はい」
差し出された包みを、僕はゆっくり開いた。中から出てきたのは、一本の組紐だった。細く、固く、丁寧に編まれた紐。色は、二色。銀と、深い藍。
「編んだ。……月の色と、夜の色」
一字ずつ、だ。
名前でやったことを、この人は、色でもう一度やったのだ。夜なべの内職の正体を、僕は指先でなぞった。編み目は細かくて、少しも波打っていなくて、この几帳面さで幾晩も編まれたのだと思うと、喉の奥が熱くなった。
「髪、貸して」
ヨゾラが僕の後ろに回った。髪を結うのは、いつも僕の係だった。彼女の銀の髪を、僕が編む。それが逆さまになる初めての夜に、僕は黙って、背中を預けた。低いところでひとつに束ねられて、組紐が、きゅ、と結ばれる。
「できた」
振り向くと、ヨゾラは出来栄えを確かめて、それから、当然の顔で言った。
「——次の約束」
来た。当日に言う、と保留されていたものだ。僕は背筋を伸ばした。
「来年も、祝う。その次も。……あなたの誕生日は、これから毎年、私が祝う」
毎年。
その二文字の射程の長さに、僕は一瞬、息を忘れた。三回の包み焼きが、ずっとになったときと同じだ。この人の約束はいつも、期限のほうを外しにかかる。
「……なら、僕からも、約束の追加を要求します」
「ん」
「君の誕生日、いつか教えて。僕も、祝う側をやりたい」
ヨゾラは少しだけ黙って、それから、小さく頷いた。
「……ん。いつか」
いつか。その言葉が約束の棚に載る音を、僕は確かに聞いた。
寝る前、ヨゾラがもう一度、僕の前に立った。組紐の結び目を、指先で軽く直して、それから、まっすぐに言った。
「今日は、あなたが生まれた日。……生まれてくれて、ありがとう」
息が、詰まった。
五年間、僕は自分を封印しようとしていた。名前ごと、生まれてきた僕ごと、なかったことにしようとしていた。その僕の誕生を、この世界のこの人が、ありがとうと言う。
泣くのは生きている者の仕事だと、この家の帳面は言う。だから僕は、堂々と仕事をしながら、答えた。
「……はい。生まれて、——よかった」
六月六日は、ルナの誕生日です。
そのため、この回は午後六時六分の投稿としました。ちょっとした遊び心です。次回からは、いつもどおり朝七時に戻るのでお願い致します。




