第33話 第六の針《なおしごと》
見張り番の報告には、二種類あるらしい。
おやつの在処を知らせる型と、仕事の型である。木苺の前科があるので、その朝、りんりんと駆け込んできた銀色を見たとき、僕は正直、半分は甘味を疑った。
疑った僕を、ツキヨはまっすぐ見上げて、額の紋を、ふ、と光らせた。それから森の方角へ体を向けて、もう一度、りん。ふざけた響きが、どこにもなかった。
「……祠。鎖の話、だと思う」
ヨゾラが、静かに通訳した。道の係は、いつのまにか兎語の通訳も兼ねている。月の眷属には、月の鎖の張り具合が、肌でわかるらしい。緩み始めの気配を感じて、報せに来たのだ。見張り番の、初めての本業だった。
「……優秀すぎない?」
りん、と控えめな音が返った。謙遜に聞こえた。
支度は速かった。務めの荷に、今回はひとつ追加がある。ヨゾラが道具袋に入れたのは、石工の道具——ではなく、何も入れなかった。「道具は、あなた」と言われた。含みのある人事である。
三度目の道は、体が覚えていた。目印より先に足が曲がる。森の中の呼び分けも、もう板についた。結月、と呼ばれて、はい、と返す。この往復だけで、務めの日の半分は報われている気がする。
森は、初夏の顔になっていた。
下草が膝の高さまで伸びて、木洩れ日の色が濃い。ヨゾラは歩きながら道の書を開き、目印の欄に短く書き足していく。白い木——花が終わった。二股の岩——蔦が伸びた。季節ごとに変わる森の顔を、彼女の字が追いかけていく。この帳面を将来読む誰かは、道と一緒に、季節も受け取るのだろう。
祠の広場で、囁き版の魔眼を開いた。
ツキヨの報せは、正確だった。結び目の光が、前に締めたときの記憶より、ひとまわり細い。緩み切ってはいない。でも、頃合いだ。暦ではなく、視て決める。ばあちゃんの帳面の教えどおりに、僕は今日の仕事を決めた。
三度目の月鎖は、囁きに近い声でも、底まで通った。
聞け、月鎖——呼びかけて、来歴を語り、締め直せと命じる。叫んだのは最初の一度きりで、務めの言葉は、回数を重ねるほど静かに、深くなっていくらしい。結び目が満ちて、鎖の輪郭が研がれて、祠はまた、ひと月ぶんの眠りに入った。
「で——本題は、こっち」
ヨゾラが指したのは、祠の土台の石積みだった。
角が欠け、隙間が開き、一部は崩れて足元に転がっている。番人が絶えていた間の傷みだ。ヨゾラの手が、いつもの癖で石を拾い、積み直そうとして——止まった。彼女は僕を見て、例の含みのある顔で言った。
「言ったでしょ。使えるって」
禁書のページを三秒で実務に変換した人の、あの即答である。祠の石積みと、道の段に、使える。あの夜の宿題を、僕は今日、提出する。
息を吸う。二枚目は、六番目。
「回れ、時計仕掛けの黙示録。時の理よ、我が名のもとに傅け——第六の針は、繕え。《六ノ刻・修繕》!!」
言い切った瞬間、崩れた石が、ふわりと浮いた。
土の上を、時が逆さに流れる。転がった欠片が宙を戻り、欠けた角が欠ける前へ、開いた隙間が開く前へ——ことり、ことりと、石たちが自分の居場所にはまり直っていく。数十年ぶんの崩れが、ひと呼吸で、崩れる前に帰った。
ただし、新品にはならなかった。
石の苔は苔のまま、角の丸みは丸みのまま。直ったのは「壊れ」だけで、積まれた年月の風合いは、そっくり残っている。……そうか。この針は、時間を消すんじゃない。乱れだけを、ほどくのだ。番人たちが積んだ時間は、僕の魔法でも、巻き戻せない。それで、いいと思った。むしろ、それがいい。
「——っ、と」
膝が、少し笑った。六番目の針は、一番目よりずしりと重い。浅い針ほど軽く、深い針ほど重い。体で覚える教科書どおりの手応えに、隣からすっと肩が差し出された。借りた。今日はもう、遠慮しない日である。
直った石積みを、ヨゾラは長いこと、手のひらで確かめていた。
「……この石、ばあちゃんが積んだやつ。この、角の丸いの」
崩れる前に戻った石の中に、彼女の知っている手つきが、そのまま残っていた。時間を消さない魔法でよかったと、僕は心の底から思った。直したのは壊れだけ。積んだ人の跡は、ぜんぶ、そこにある。
直ったのは、魔法では一箇所だけにした。
残りの細かな隙間は、二人で石を拾って、手で詰めた。ヨゾラいわく「全部魔法だと、手が忘れる」。番人の仕事は、言葉と手の両輪らしい。ツキヨが小石を鼻先で転がして運んでくるので、労働力は三名になった。戦力になっているかは、可愛いので不問とした。
手を動かしながら、ヨゾラが、ふと言った。
「……これ、封にも、使える? 鎖を、戻すほうに」
手が、一瞬止まった。六の針で、封そのものを強くする。もしそれができたら、務めの間隔は延びる。祠を空けられる時間が、増える。……遠くへ行ける日が、来るかもしれない。
「——封は、言葉の領分だと思う。でも」
でも。
「調べる価値は、あるかも」
ヨゾラは頷いて、それ以上は聞かなかった。宿題がまた一つ、引き継ぎ書の隅に書き足された気配がした。
作業を終えて顔を上げると、東の空が、金色に太っていた。
山の稜線から、満月が昇り始めている。日が沈む側と、月が昇る側。空の両端が同時に燃える、満月の日だけの夕方だった。
「あ」
ヨゾラが、短く言った。指の先に、ツキヨがいた。
夕陽と月光を半分ずつ浴びた銀色の、その尻尾が——ふ、と。
三日月型に欠けていたはずの尻尾が、真ん丸に、満ちた。
「「…………!!」」
二人同時に、声にならない声が出た。設定どおりである。満月の夜だけ、尻尾は真円になる。設計図に書いた僕自身が、実物を見て一番驚いている。額の紋も、まん丸の月を写して、静かに光っていた。当時の僕、細部まで天才では?
ツキヨは僕たちの視線に気づいて、なぜか得意げに、丸い尻尾をぷりぷりと振った。わかっている顔だった。
帰り支度を済ませて、僕たちは軒下の見張り番に「おやすみ」を言った。言う側になったのだな、と思いながら。
広場を出る前に、一度だけ振り返った。
昇りきった満月が、祠の屋根の真上に、まっすぐ座っていた。




