第34話 夜の色
「今夜、月が出ない」
夕餉の片付けの途中で、ヨゾラが言った。
一瞬、身構えた。月が出ない。月蝕? 凶兆? 名喰い関連の何か!? 頭の中で物騒な候補が三つ手を挙げたところで、彼女は続けた。
「だから、星が濃い。——見に行く?」
……誘いだった。物騒どころか、この上なく穏やかな夜のお誘いであった。身構えて損した。でも、と思う。夜に出かける、という言葉が、こんなに軽く言える日が来たのだ。ついこの間まで、夜は声の時間だった。戸を閉めて、結界を張って、朝を待つ時間だった。その夜を「見に行く」と誘える——それだけで、僕たちが取り戻したものの大きさがわかる。
「行く。行きます」
返事が、食い気味になった。
支度は簡単だった。毛布を一枚。それから、焼いておいた蜂蜜の焼き菓子を布に包む。麦粉と蜂蜜だけの素朴なやつに、木苺の煮たのを少し。星見のおやつ、である。
「そういえば、僕の世界の暦だと、今日あたりが、一年でいちばん昼の長い日なんだ。つまり——いちばん、夜が短い日」
「短い夜に、夜更かし」
「贅沢でしょ」
「ん。……大事に、使う」
短いから大事に使う。夜の使い方の話なのに、なんだか別の話をされた気がして、僕は荷物を結び直すふりをした。
村を抜けるとき、井戸端のおばさんに見つかった。
「あらまあ、夜歩きかい!」
「星を、見に」
「はいはい、ごゆっくり!!」
からからと笑って、手を振られた。夜歩きが冗談で済む村に、僕たちはしたのだ。少しだけ、誇らしかった。
ヨゾラの案内で、村はずれの丘に登った。森とは反対側の、ゆるやかな草の丘だ。
「ばあちゃんと、来てた。薬草摘みの帰りに、ここで星を数えた」
てっぺんに毛布を敷いて、二人で寝転んだ。
そして、息を呑んだ。
空が、落ちてきそうだった。
月のない空に、星が、痛いくらいに詰まっている。濃いところは砂をこぼしたみたいに白くて、それが空を斜めに横切っていた。川だ。星の川が、頭の真上に架かっている。
僕の世界の、僕の部屋のベランダから見えた星は、数えるほどだった。鍵っ子の夜は、街の明かりで薄まった、灰色がかった夜だった。本物の夜がこんな色をしているなんて、僕は今日まで、知らなかった。
布包みを開けて、焼き菓子を分けた。麦粉と蜂蜜の、飾り気のない甘さに、木苺の甘酸っぱさがのる。夜の外で食べる甘いものは、家の中の三割増しでおいしい。ヨゾラは二つ目に手を伸ばしながら「これも、帳面に書く」と言った。菓子の欄が、また育つ。
「こっちの星、名前ある?」
「ん。あれが、種まきの三つ星。あれが昇ったら、豆を植える。あっちは、井戸の柄杓。傾きで、雨を占う」
実用的だった。さすが、暮らしの魔法の世界の星である。対抗して、僕も指をさした。
「僕の世界……というか僕の設定だと、あの並びは『冥王の鎌』。振り下ろされると千年の冬が来る」
「物騒」
「でしょうね!!」
ヨゾラは少し笑って、それから、僕の指の先をたどるように、じっとその並びを見た。覚える気だ。物騒な星座を、この人は道の書に書き足す気でいる。後世の番人が空を見上げて千年の冬に怯えたら、責任は僕にある。
ふと、気づいた。
夜の外にいて、僕は、耳を澄ましていない。呼ばれることを、警戒していない。あの頃、夜の音のぜんぶが疑わしかった。いまは虫の声は虫の声で、風は風だ。夜が、ただの夜でいてくれる。この静けさを取り戻すために、あの十九日があったのだと思うと、頭の上の星の川さえ、誰かの労いに見えた。
しばらく、静かな時間が流れた。
虫の声と、草の匂い。隣の呼吸。星の川は見ているあいだにも、少しずつ傾いていく。
「……この色だ」
気づいたら、声に出ていた。
「?」
「空の。この、いちばん深い藍色。——五年前から、ずっと塗ってた色」
言ってしまってから、もう止まらなかった。白状である。ノートの設定画で、月を描くときは、必ず隣にこの藍を塗った。月と夜空はセットだから。理由は、それだけのはずだった。五年間、何十ページも、僕はこの色を塗り続けて——そして、この世界に来たら、その色に目があった。
「ツキヨの耳の裏を見たとき、僕、変だったでしょ。……あれ、この色のせい。五年前からずっと選んできた色が、君の色だったから。——選んだ本人が、いちばんびっくりしてた」
ヨゾラは何も言わずに聞いていた。聞く係の顔で。だから、最後まで言えた。
「僕は、夜の色が——世界でいちばん、好き」
空に向かって言った。言ってから、首だけ、横に向けた。世界でいちばん好きな色が、二つ、こっちを見ていた。
長い沈黙のあとで、ヨゾラが言った。
「……私の色を、いちばんって言った人、初めて」
夜空、という名前は、村では少しだけ、暗い名前だったのだという。夜の家の子。遠巻きにされる家の色。彼女はそれを、恨み言でもなんでもない、ただの昔の事実の声で言った。それから、こっちを向いた。
「私は、黒が好き」
「え」
「あなたの色。髪と、目の。……夜の、いちばん深いところの色」
息が、止まった。
黒。地味で、無難で、僕が僕であることの、いちばん何でもない部分。それをこの人は、夜のいちばん深いところ、と呼んだ。夜空の名を持つ人の言葉で言うなら、それはつまり——夜空の、いちばん真ん中、ということになる。
気づいてしまった僕の顔は、たぶん、星明かりでも分かるくらい赤かった。
ヨゾラの手が伸びて、僕の髪の、組紐の結び目に触れた。銀と、藍の、二色。
「……次に編むのは、黒も入れる」
「三色?」
「ん。——ぜんぶの色」
ぜんぶ。月の色と、夜の色と、夜のいちばん深いところの色。次の組紐の設計図が、いま、星の下で引かれた。
そのとき、空の端を、白い線がすっと走った。
「あ」
「流れ星!! 願いごと!! 早く!!」
僕の世界の決まりを、僕たちは慌てて実行した。目をつぶって、三つ数える。目を開けると、隣も、ちょうど目を開けたところだった。
「……今、何か願った?」
「内緒」
「僕も内緒」
お互い様だった。内緒の中身が同じ方角を向いている気配だけが、夜の空気の中に、ほんのり漂っていた。
いちばん短いはずの夜が、どの夜よりも長かった。
時間の魔法は、何ひとつ、使っていないのに。
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