第35話 冥王の鎌《ふゆのかま》
道の書に、新しい欄が生まれた。
『そら』の欄である。種まきの三つ星、井戸の柄杓——丘で彼女が僕に教えてくれた星たちが、ヨゾラの丁寧な字で並んでいる。帳面というものは、知っていることも書いておくものらしい。
そして、その最後に、あの物騒な名前もしっかり書かれていた。冥王の鎌。振り下ろされると千年の冬が来る、と注釈つきで。
番人の公文書に、僕の中二設定が正式収録された瞬間である。後世への責任が、また重くなった。
その夜、僕たちは長老の家にいた。
おばさんから漬物を預かって、届けにきたのだ。ついでに座っていけ、と囲炉裏——ではなく、夏なので縁側に通された。
夜風と、虫の声。白湯の季節は終わって、井戸で冷やした水が出た。「ほっほ、夜風が良うなったの」と長老は機嫌がいい。三人で並んで涼む、静かな時間だった。
空には、今夜も星が濃かった。
「帳面に、そらの欄を作りました」
ヨゾラが、少し得意げに言った。道の係の、新しい欄の披露である。膝の上で道の書を開いて、書いた順に、指を紙と空に往復させながら読み上げていく。
「種まきの三つ星。井戸の柄杓。——それから、新しく覚えたのが、あれ。冥王の鎌。振り下ろされると、千年の冬が来る」
完全に、伝承を語る顔だった。真顔で。よどみなく。
言い方!! それ僕の設定!! 覚えたばかりの出典・僕!!
悶絶しかけた僕の隣で——
長老の湯呑みが、止まっていた。
「……ヨゾラや。いまの名を、どこで聞いた」
声が、低かった。縁側の空気が、すっと一段、冷えた気がした。ヨゾラが僕を見る。僕は正直に手を挙げるしかない。
「僕の……故郷の、呼び名です」
嘘ではない。故郷どころか、出典は僕自身である。長老は皺の奥の目で僕をじっと見て、それから、空のあの並びを見上げた。長い、長い沈黙のあとで、口を開いた。
「あの星をな。わしらが子どもの時分は——『冬の鎌』と呼んどったのじゃ」
冬の、鎌。
「今はもう、誰も呼ばん。唄も、途切れた。……こういう唄じゃった」
長老はしわがれた声で、ゆっくりと歌った。
「——かまのほし、ふりおろすな。ふゆのばん、とをたたくな」
鎌の星、振り下ろすな。冬の晩、戸を叩くな。
血の気が、引いた。
鎌。冬。戸。……知っている単語ばかりだった。
あの祠の戸を、僕たちは知っている。戸の向こうで封じられている、季節を止める何かを、知っている。何十年も冬が座っていた場所を、この足で歩いた。
僕が五年前、ノートの隅に走り書きした星座は——振り下ろされると千年の冬が来る、僕の考えた設定は——この村の、途切れた古い唄と、同じ骨組みをしていた。
ヨゾラが、道の書を開いた。鉛筆が、唄の一行の上で、少しだけ迷って——それから、書いた。
「……忘れられた唄を書き留めるのも、番人の帳面の仕事。ばあちゃんも、そうしてた」
迷いを乗り越えた字で、途切れた唄が、引き継ぎ書に戻ってきた。
「偶然、では」
言いかけた僕を、長老は手のひらで、やんわり止めた。
「かもしれん。星に鎌を見る目は、どこの土地にもあろうての。冬を怖がる心も、な。……じゃがの」
白湯を一口。それから、僕をまっすぐ見た。
「前にも言うたのう。おまえさんの言葉は、遠い匂いがする、と」
あの囲炉裏端の言葉が、そっくりそのまま、夜の縁側に戻ってきた。あのときは、祝詞の話だった。今夜は、星の話だ。二度あることは、もう、癖と呼んでいい。僕の言葉はこの世界の古いものと、どこかで響き合う。
「言葉というものはの」
長老は空を見たまま、続けた。
「地面の下の水と、同じでな。遠い土地で汲んでも、同じ味がすることが、ある。おまえさんの井戸と、うちの井戸は——どこか深いところで、水脈が繋がっとるのかもしれんのう」
水脈。
帰り際、戸口で、長老がふと聞いた。
「ルナや。その星の唄——おまえさんの故郷には、続きがあるかの」
「……ないです。振り下ろされたあとのことは、書いてません」
「なら、ええ」
長老はほっほ、と静かに笑った。
「続きは、書かんでええ唄も、あるでの」
帰り道、僕はずっと、水脈という言葉を転がしていた。
五年前の僕は、あの星座を「考えた」のか。それとも——聞こえていたのか。どこか深いところから、この世界の古い唄が、鉛筆の先まで、届いていたのか。
考えれば考えるほど、足元の地面が薄くなる感じがした。
わからないことは川に流す。あの最初の川辺からの、僕の流儀だ。でも今夜のは、少し大きくて、流れにくい。
それに——思い出してしまった。あの儀式のことだ。
僕は最後まで唱えていない。唱え切っていないのに、扉は開いた。
僕とこの世界のあいだには、最初から、説明のつかない糸が一本、張られている。今夜の唄はその糸が、ぴんと鳴った音のような気がした。
「結月」
隣から、声がした。夜道の呼び分けは、いつだって正確だ。
「怖い顔、してる」
「……ちょっとだけ。自分の頭の中が、自分のものじゃなかったかもしれない、って思ったら」
ヨゾラは少しのあいだ、黙って歩いた。それから、当然の顔で言った。
「あなたの祝詞は、届いてる」
「え」
「帳面に、書いてあった。借り物の言葉は、届かないって。ただの音になるって。——あなたの言葉は、届いた。祠で、何度も。私、いちばん近くで聞いてた」
足が、止まった。
そうだ。この世界の理屈が、とっくに答えを出している。
祝詞は、己で編んだ言葉でなければ届かない。借り物は、ただの音。
そして僕の月鎖は——届いた。結び目を締めて、戸を閉じて、森に静けさを返した。あれが借り物の音なら、祠は今ごろ静かじゃない。
「聞こえてたのだとしても、汲んだのだとしても」
ヨゾラは空の鎌を見上げた。
「編んだのは、あなた。あなたの言葉なのは、変わらない。……私が好きなのも、変わらない」
最後の一言は、少し早口だった。この人の早口は、照れの合図である。夜道でよかった。僕の顔も、たぶん見られたものではなかった。
見上げた空で、鎌の星が、静かに光っていた。振り下ろされる気配は、ない。千年の冬は、あの祠の中で、鍵をかけられて眠っている。
「……もし、振り下ろされたら?」
わざと軽く、聞いてみた。ヨゾラは足を止めず、前を向いたまま、いつもの声で言った。
「大丈夫。振り下ろされたら——あなたが、黙らせる」
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